豊臣秀次(羽柴秀次)の切腹事件は嘘だらけ?!秀吉は切腹を命じていなかった?!

殺生関白と言われ、血塗られたイメージが強い秀次ですが、近年の歴史調査により、
定説とは全く違う新事実が判明してきました。
秀次事件の新事実を解説していきます。

天正18年(1590)、小田原攻めで北条氏が降伏し、豊臣秀吉は念願の天下統一を果たします。
秀吉はその後、甥の羽柴秀次に関白を委譲し、自らは太閤として豊臣政権を盤石なものにしようと目論みました。
ところが、秀吉の思惑を根底から覆す事件が起きます。
秀吉に実子の秀頼が生まれたことにより、関白の座が危うくなったと考えた秀次が謀反をおこします。
それに怒った秀吉は、秀頼に切腹を命じました。
世に言う「秀次切腹事件」です。
秀次だけにとどまらず、側室や子供たちを含めた39人が京都の三条河原で公開処刑され、凄惨を極めました。

豊臣秀吉は秀次に切腹を命じていなかった?

秀吉は、実子である秀頼のかわいさあまり、秀次一族を惨殺したというのが一般的な歴史認識になってきました。
これは晩年になった秀吉のもうろくが原因とされてきたのです。

しかし、秀吉が秀次に切腹を命じていなかった可能性が浮上してきたのです。
そうだとすれば、なぜ秀次と39人の一族は切腹したのでしょうか。

秀次事件の概要

秀吉の正室、「おね」との間には子供が生まれませんでした。
そのため後継者を他から探す必要が出てきます。
弟の「秀長」は、長年にわたって秀吉を支えてきましたが、小田原出兵の翌年に病死します。
また、「淀殿」との間に生まれた「鶴松」も幼くして病死してしまいます。

結局、関白を継いだのは秀吉の姉である「とも」の長男である秀次となりました。
すなわち秀吉と秀次は、叔父と甥の関係です。

しかし秀次が関白就任後、淀殿との間に「秀頼」が生まれるのです。

定説では、秀吉が秀頼をかわいがるあまり秀次の心身が憔悴し、秀次謀反の噂が立ちます。
そこで秀吉が秀次を高野山に追放、ついには切腹命令を下したとされています。

また、秀次は鉄砲で農民を撃ったり、妊婦の腹を裂いたりと殺生関白だったという噂も立っていたようです。
秀次の死後の資料では、残忍性を極めた人物だったという資料が多く、殺生関白という呼び名もそのなかの資料にて書かれています。

実際の秀次はどんな人物だったのか

関白になる前には、秀次は近江八幡の43万石の広大な領地の大名を任されます。
死後の資料と打って変わって、近江八幡に残された資料では、秀次は名君として伝えられているのです。

近くにある安土の楽市・楽座の人々を近江八幡に移住させたことで、
商人の町として大変栄えたとのことです。

近江八幡の町は、現在でも昔の建物と町並みを残し、その事実には間違いはありません。
琵琶湖から八幡堀という水路を城下町にも作り、経済の町として活性化させるという
当初としては画期的な取り組みを行っていました。

そういったなか、水利権を領民たちが争いが起きました。
そのとき秀次は流血させず名さばきを行ったという話が伝わっているとのことです。

秀次事件、一連の流れ

文禄4年(1595)
7月3日 京都にて、石田三成などから謀反の容疑で詰問され、事実上の失脚
7月8日 京都 聚落弟を離れる
7月10日 和歌山県高野山に到着
7月13日 切腹命令がくだされる
7月15日 午前10時頃 秀吉の命令により 切腹
8月2日 京都にて秀次の妻子、側室ら一族39名が公開処刑

謀反の疑いがえん罪である可能性が浮上

近代の調査で浮かび上がった事実として、秀次の謀反の噂はあったものの
実際の計画としては存在していなかったことが明らかになっています。
謀反に関する具体的な記述は、太田牛一の著する「太閤様軍記の内」という書物に記されています。
内容としては、
”秀次中心の反秀吉派が鹿狩りを口実に、山中で謀反の謀議を重ねているという噂を理由に、石田三成らが秀吉を尋問した。
秀次の普段からの暴挙からしても、切腹は因果応報である。”
というものです。
しかし、「太閤様軍記の内」が書かれたのは秀吉の死から10年後の徳川の時代であり、
内容をそのまま受け止めることはできないようです。
書物はひらがなが多く使われており、秀吉の息子である秀頼に読み聞かせるための物語の性格が強いと推測されています。

また、見逃せない事実としては、秀吉が秀次追放を命じた資料がいっさい存在しないという点です。
7月10日、高野山に到着された当日、朝廷内の女官たちによって記録されていた日記「御湯殿上日記」には秀次の行動が以下のようにするされていました。
”今朝 関白へ太閤より御使いがあって
「謀反とやらの噂がお耳にはいり 秀吉の機嫌が悪いので 御断り御候まで」
と伝えられ、秀次は高野山に御のぼりになった”
ここでのポイントは、追放ではなく秀次自らがまげを切り、高野山へ出奔したということです。

この事実は、事件そのものの見方を大きく変えます。
秀次が高野山に到着した2日後の12日、秀吉より「秀次高野住山」令という文書が発行されます。
出向した秀次をそのまま高野山に「長期」「幽閉」しようとした意図が見て取れるのです。
内容には、「台所人(料理人)」「刀」を持ってはならないとしてあり、
秀吉は秀次が切腹しないようにしたと見て取れます。

しかし、その翌13日には石田三成らが書いたとされる「秀次切腹命令」が出されました。
当時の最高権力者である関白が、禁固刑だと書面を出したその次の日に、配下の書面で切腹命令がくだされるのは不自然きわまりないことです。

また、時間と距離の疑問も残ります。
13日に切腹命令が出されたとすれば、14日に夜には「秀次切腹命令」の書面が届いていないと、
15日午前10時の切腹は実行されないはずです。
京都伏見から和歌山高野山までおよそ130キロ、飛脚が昼夜止まらず行けば移動可能と言われますが、
使者とされたのは単なる伝令者ではなく、名のある大名・武将であり、徹夜で動くということは考えられません。

秀次切腹命令の書面は、江戸時代に書かれたねつ造品であった

この衝撃的な事実は、秀次に手渡された書面が切腹命令ではなく、12日付けに発行された秀吉からの禁固命令の書面であったことも裏付けています。
ではなぜ、秀次は切腹したのでしょうか。。

無実であったことを訴えるために、切腹をしたという解釈が強まっています。
秀次は、謀反の事実は無いことを秀吉に申し開きたかったものの、秀吉の機嫌が悪く面会できないため高野山に出奔しました。
秀吉に身の潔白を証明するために切腹したとの見方があります。

また、可能性としては誰かが秀次に切腹の進言をしたことも考えられます。
秀次の謀反の噂がえん罪であったとすれば、すべては秀次の失脚を狙った策略である可能性も出てきます。

犠牲になった39人の秀次一族の公開処刑がされた跡には、瑞泉寺と言われる供養のための寺が建てられ、39人全員の肖像がまつられています。
そして、近江八幡市にある秀次の城跡に建立された寺瑞龍寺では、毎年7月15日に秀次の法要が行われています。

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