作詞家・湯川れい子の豪華すぎる交友関係!死を覚悟したシンディ・ローパーとしたこと。

湯川れい子(ゆかわれいこ)は日本を代表する音楽評論家、作詞家、翻訳家です。

ビートルズ、エルビス・プレスリー、マイケル・ジャクソン、エルトン・ジョンなど数多くの世界的なミュージシャンとの交流があることでも有名です。

また、非常に多くのミュージシャンのライナー・ノーツ(CD・レコードの解説)を手がけています。

世界的なスターたちとの交流

エルビス・プレスリーとの交流。

1973年、ラスベガスで挙式をした際に、エルビス・プレスリーが結婚の証人となりました。

しかし、その結婚は1998年に終焉、離婚となってしまいました。

シンディ・ローパーとの交流。

東北大震災の3月11日当日、シンディ・ローパーは来日公演で日本に到着しました。

日本のために命を捨ててしまってもいいという覚悟で、湯川れい子と一緒に仙台に向かったとのことです。

石巻=ロックンロールということで、仙台の居酒屋で飲み明かしたと言います。

湯川れい子の作詞家としての経歴

1956年から作詞家として活動しています。70年台80年台にかけては、CM曲の作詞等も手がけています。

ラッツ&スターのデビュー曲である「ランナウェイ」を作詞したことはあまりにも有名で、CM曲として作られたこの曲は評判がよく、あとからラッツ&スターのロングバージョンの曲として完成されました。

金曜日の妻たちの主題歌、小林明子の「恋におちて」の作詞も手がけています。

最初は英語の堪能な湯川れい子に対して、レコード会社から全英語でのオファーがされましたが、結局日本語に修正してほしいとレコード会社から再度の要求があったようです。

「ダイヤルまわして、手を止めて」という歌詞はとても印象的で当時、大変流行した言葉になりました。ただ、ちょうどそのころから電話がプッシュフォンに切り替わり始めた時期。レコード会社から再度修正の依頼があったものの、そこだけはダイヤルでいきたいと突き通したとのことです。

このエピソードからも、とても芯の強いライター魂があったことがうかがえます。

ほかにも、アン・ルイスの「六本木心中」、西郷輝彦の「星の涙」「9月のバラ」、 TUBEの「Tears」「Endless sunset」、中島美嘉の「火の鳥」、氷川きよしの「きらめきのサンバ」、松本伊代の「センチメンタル・ジャーニー」など、時代、ジャンル問わず多種多様な楽曲の歌詞にたずさわっています。

湯川れい子のラジオDJとしての経歴

「アメリカン・トップ40」「ポップシーンメモリー」など、大ヒットしたFMラジオでDJをしていました。

大橋巨泉、青島幸男と同じく構成作家からラジオDJに転身しました。1962年、当時26歳から西銀座ニッポン放送のサテライトスタジオでDJとしての経歴をスタートさせます。日本でほぼ初めての女性DJだったと言われます。

当初世界で最も豊かだったアメリカ、その国の音楽を、まだまだ成長期で豊かとは言えなかった日本に次々と紹介していきました。

日本に洋楽(主にアメリカ)を紹介する架け橋となり、日本人の新たな音楽趣向に多大な影響を与えた人物です。

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