「風立ちぬ」堀越二郎の零戦(ゼロ戦)開発は、とんでもないプロジェクトだった!零戦の栄光と敗北。

映画「風立ちぬ」で話題となった、堀越二郎。
今回は映画の背景とともに堀越二郎という人物を掘り下げてみました。

映画「風立ちぬ」の歴史背景

昭和12年(1937)に始まった日中戦争の夏に、事件が起きます。
日本の陸上攻撃機が、戦闘機の護衛なしで中国の奥地で爆撃をするのですが、撃墜されます。
陸上攻撃機とは、陸上基地から発進し、爆弾や魚雷を落として敵を攻撃する飛行機のことですが、
攻撃機自体は敵の飛行機と戦闘する能力があまりないため、通常は戦闘機が護衛につくことが通常でした。
しかし、海軍の戦闘機は長い飛距離を飛ぶことは出来ず、護衛ができなかったのです。

また、当時は中国からの日本軍撤退を求めるアメリカなどと対立し、
ABCD包囲網※と呼ばれる国々との緊張感も高まっていました。
※America , Britain , China , Dutch(オランダ)

そんななか、日本軍は優秀な戦闘機を作ることが必要であり、
白羽の矢が立ったのが、風立ちぬで知られる三菱航空機の技術者である堀越二郎でした。

堀越二郎の生まれと経歴

堀越二郎の生まれた1903年は、ライト兄弟が世界で初めて飛行機の動力飛行を成功させた年でもありました。
堀越は、子供の頃から飛行機に思いを馳せ、飛行機を作ることを目指します。

大正13年(1924年)、堀越二郎は東京帝国大学工学部航空学科に入学します。
昭和2年(1927年)に主席で卒業すると、航空機製造を手がけていた三菱内燃機製造(のちの三菱重工業)に入社しました。

海軍からの零戦開発命令

その後、29歳の若さで設計主任に抜擢され、技術者として頭角を表していきます。
昭和11年(1936年)には、海軍より発注された九六式艦上戦闘機が採用され、日中戦争で活躍しました。

しかし、飛行距離が短いのが難点でした。
そこで日本海軍から新たに下されたのが、十二試艦上戦闘機(零戦)の開発命令でした。
要求は、航続距離、武装、空戦能力、速度、上昇力のすべてにおいて他国より勝るように、
という非常に厳しいものでした。

堀越二郎は、この命令についてスポーツにたとえてこう言いました。
「十種競技の選手に対し、五千メートル競争で世界記録を大幅に破り、フェンシングの競技で世界最強を要求し、
その他の種目でもその種目専門の選手が出した世界記録に近いものを要求しているようなものであった。」

それはまさに当時の常識を超えた戦闘機開発だったのです。

堀越二郎34歳で零戦の開発3年が始まる

堀越は平均年齢24才からなる28人の設計チームを結成しました。
開発開始から半年後の昭和13年(1938年)4月13日、あまりに高い開発要求の行き詰まり、
海軍にひとつでも妥協ができないものかと直談判しました。
しかし、議論は平行線をたどってしまいました。

堀越二郎はどのようにして高性能戦闘機を開発したのか

最大の問題は重量の軽減でした。

重量計減方法
①穴あけ加工 部品の様々な場所に穴を開け、グラム単位で軽量化を図りました。
②新素材採用 国内の金属メーカーが超々ジュラルミンを開発。すぐに主翼の桁に採用しました。
③安全率の引き下げ 当時の軍用強度では1.8だった安全率※を、一部の具材の安全率を1.6まで引き下げました。
※現在の一般飛行機の安全率は1.5です。

以上の試みから、堀越は重量計減に成功しました。
また、航続距離や速度を上げるため、空力設計にも力を入れました。

そしてわずか1年半後、ついに零戦の試作機が完成します。
「どんなにすぐれた戦闘機であっても、平時で四年、戦時なら二年で旧式となり、通用しなくなってしまう。」
開発にもスピードが必要だったことを本人が語っています。

昭和14年(1939)4月1日、初試験飛行を果たします。
しかし、その試験飛行によって新たな問題点が次々と発見されてしまいます。

降りてきたパイロットから、
「操縦桿の動きと飛行機の動きが合わず、運転しづらかった。」
と言われました。
それは、今までの飛行機よりも格段にスピードが上がったことによる現象でした。

それを克服するため、操縦桿と昇降舵を結ぶケーブルを少し細くし、
弾性(伸び縮み)を利用して上昇が穏やかになるようにしました。
この方法は、剛性低下方式と呼ばれ、堀越二郎の独創的かつ画期的なシステムで、戦後の戦闘機にも大きな影響を与えました。

2名の殉職者を出してしまった過酷な飛行試験を繰り返し、
昭和15年(1940年)7月24日に零式艦上戦闘機(零戦)として制式採用されるのです。

大活躍した零戦の存在はアメリカに全く知られなかった?

昭和15年(1940年)9月13日、零戦はついに初陣を飾りました。
中華民国の首都重慶に向かいました。
零戦13機に対し、中国軍戦闘機は27機。零戦は1機も失うこと無く全ての敵を撃墜したのです。

その後、中国戦線に配備された零戦は30機でしたが、損害はわずか2機にとどまり、適機266機を撃墜・撃破したのです。

圧倒的な力を見せつけた零戦ですが、中国がアメリカに報告したにもかかわらず、広く知られることはありませんでした。
なぜ、存在をアメリカ軍に知られなかったのでしょう?

当時、アメリカやイギリスから見れば、日本は航空開発後進国でした。
そのため、日本がまさかそれほど優秀な戦闘機を開発するなど考えもしなかったのです。
中国からの報告をアメリカは黙殺してしまい、太平洋戦争まで知ることはありませんでした。

アメリカやイギリスが初めて目の当たりにした零戦のすごさ


昭和16年(1941年)12月8日、太平洋戦争が勃発します。
太平洋戦争で連合軍を相手にしても、零戦は無敵でした。

台湾を出発した零戦部隊は、航続距離の長さを生かし、800キロ離れたフィリピンのアメリカ軍航空部隊を殲滅しました。
そののち、インドネシアを経てニューブリテン島のラバウルまで進出しました。
「ラバウル航空隊」と呼ばれ、当時のエースパイロットたちが集結する最強の空軍部隊でした。
笹井醇一、太田敏夫、西澤広義、坂井三郎らです。
中でも坂井三郎は中国戦線から活躍し、太平洋戦争を生き抜きました。
出撃回数役200回、撃墜数64機、回顧録である「大空のサムライ」を出版したことでも有名です。

アメリカ軍は零戦の強さを認めざるを得ませんでした。
「戦闘中に退いていいのは、雷雨に合った時と、零戦と遭遇した時」
という指令を出したと言います。

ミッドウェー海戦での惨敗

太平洋戦争で大進撃を遂げていた日本軍と零戦でしたが、開戦翌年の昭和17年(1942)6月5日のミッでウェー海戦で、
空母艦4船を失う大敗北を喫してしまいます。
零戦も栄光から悲劇へと転落する事件に見舞われていました。
アリューシャン列島のアクタン島に一機の零戦が不時着、パイロットが即死したため破壊もできず、
アメリカ軍に無傷の零戦が回収されてしまったのです。

「アクタン ゼロ」と呼ばれたその機体は、徹底的に研究された結果、アメリカ軍は零戦との戦いを発見。
零戦の栄光の時代はこうして終わったのです。

のちに有名な神風特攻隊として零戦はこの作戦に使われ、その役目を終えるのです。

その作戦について、堀越二郎の言葉です。
「これで私が半生をこめた仕事は終わった。それと同時に長い苦しい戦いと緊張からいっぺんに解放され、全身から力が抜けていくのを覚えた」
「飛行機とともに歩んだ生涯において、最も心を痛めたのは神風特攻隊のことであった」

有名人
アスネタ – 芸能ニュースメディア

コメント