寺山修司が離婚した妻と母について。美輪明宏・高橋ひとみ・三上博史との関係は?

60年代から70年代にかけて、体制に迎合しない異端児として時代を挑発し続けた寺山修司(てらやま しゅうじ)さん。

歌人、劇作家、作家、映画監督、劇団主宰者、評論家等、縦横無尽に才気を爆発させた反骨の表現者でした。

そのカリスマ的人気は今も健在。

この記事では寺山修司さんの離婚した妻や母にフォーカスするとともに、盟友の美輪明宏さん、秘蔵っ子の高橋ひとみさん、三上博史さんについてお送りします。

寺山修司が離婚した妻

「言葉の錬金術師」「サブカルチャーの先駆者」「昭和の啄木」「三島由紀夫のライバル」「政治嫌いの革命家」などの異名をとった寺山修司さん。


あまりに多岐にわたる活動から、「寺山修司複数説」さえ生まれるほどでした。

いったい何が本業なのかと問われて、こう答えたエピソードも有名です。

職業は寺山修司。

寺山修司さんは早稲田大学在学中に腎臓疾患で入院したことがあり、この経験がワーカホリックの原因になったという人がいます。

人生の残り時間を意識するようになったのでしょう。

1983年にこの世を去ったあと、作品群を次世代に伝えるために尽力したのは、離婚した妻の九條今日子さんです。

元SKD(松竹歌劇団)の女優であり、寺山修司さんと1963年から1970年まで婚姻関係にあった女性です。

寺山修司さんが死後35年を経た今も多くの人に崇敬されているのは、死後もプロデュースし続けた元妻の力によるところもあるでしょう。

2014年4月30日、九條今日子さんは自宅で亡くなっているところを発見されます。

離婚した元夫の仕事を最期までサポートするのは並大抵ではありません。

九條今日子さんは、離婚後なぜ別の生き方を選択しなかったのでしょう。

そこには夫婦関係を超えた、同じ表現者としての使命感があったのかもしれません。

もともと女優として送り手側に身を置いていた九條今日子さん。

受け手に回る選択肢など、はじめからなかったとも考えられます。

寺山修司の母は毒親だった?

寺山修司さんの父は、寺山さんが物心つく前に出征し、戦病死したため、家族は母一人子一人でした。

ハツさんという母親は、なかなか困った人だったようです。

例えば息子を木に縛りつけ、友だちの見ている前で叩いたり、成長してからは結婚を反対し続け、火をつけた着物を新居に投げ込んだり。

進駐軍の米軍キャンプで働いていたハツさんは、福岡のベースキャンプに移るために一人息子を親類に預けたこともありました。

後年、マネージャーの田中未知さんは著書『寺山修司と生きて』の中で、ハツさんをこう語っています。

彼女を知って分かったことは、三ヵ月以上は平和に暮らしていられない性格だということである。

何も問題がないと、決まって三ヵ月ほどすると自分で問題を作り出す。

人と争うその闘争心が彼女のエネルギーを燃え立たせ、彼女をさらに元気にする。

自分が面白くなければ、すぐに「週刊誌に電話してやる!」、それが息子に対する彼女の決まり文句であった。

断ち切ろうにも断ち切れない母と息子のいびつな関係は、将来の作品群にも影を落とすようになっていきます。

美輪明宏さんの言葉を引用します。

寺山修司という人は、母親の虜になりながら、その呪縛から逃れ出ることができず、かなり苦しんだ人らしい。

寺山修司と美輪明宏

1967年、寺山修司さんが美輪明宏(当時は丸山明宏)さんのために書き上げた『毛皮のマリー』。

寺山さん亡き後は美輪明宏さんが自ら演出して上演を重ねてきた、親子の愛憎劇を描く傑作です。

再び美輪明宏さんの言葉を引用します。

過去、現在、未来。

文学にしても音楽にしても演劇にしても何にしても、そういった時間軸は天才には関係ないんです。

シェイクスピアだって黙阿弥だって決して古くならない。

「また再演ですか」なんて言うジャーナリストは、芸術の世界から身を引いた方がいいんじゃないかしら?(笑)


作中の台詞や作品世界に対する美輪明宏さんの深読みに、作者である寺山修司さんは驚いたといいます。

言葉に込められた人生哲学について美輪さんなりの解釈を伝えたところ、寺山さんは、

あなたは恐ろしい人だ。

と答えたそうです。

寺山修司の秘蔵っ子・高橋ひとみ&三上博史

17歳の時に寺山修司さん演出の舞台のオーディションに合格した高橋ひとみさん。

1979年の同期である三上博史さんとともに「寺山修司の秘蔵っ子」と呼ばれました。

寺山修司さんとは師弟を越えた関係にあったようで、最後に愛した女性といわれています。

寺山さんの価値が全然分かってない私がそばにいるのが(寺山さんは)面白かったんだと思います。

私が21歳のときに亡くなって、たった3年(の付き合い)なのに、その後の三十何年間の人生より濃かった。

無償の愛を3年間いただいたので、ずっと恋愛できなかったのかなと、あとで思ったんですけど。

高橋ひとみさんが一躍有名になったのは、1983年のドラマ『ふぞろいの林檎たち』でした。

実は当初、このドラマに出演する予定はなかったそうです。

しかし、自分の人生があまり残されていないことを悟った寺山修司さんは、脚本を担当する親友の山田太一さんに直訴。

高橋ひとみさんの行く末が気がかりだったのでしょう。

三上博史さんは、寺山修司さんが監督・脚本を務めた泉鏡花原作の映画『草迷宮』で、わずか15歳でデビュー。

一時期はトレンディドラマのエースと呼ばれましたが、現在(2023)はテレビドラマの露出が少なくなっています。

役柄によってライフスタイルさえ変えるという三上博史さん。

命を削るくらいの本気度で向き合わなければリアリズムは生まれないと語ります。

中にはそこまで本気にならなくてもいいと思っている人たちもいるわけですよ。

単に当てたい、単にヒットさせたいという人たちにとっては、本気の奴ってウザいんだろうね。

僕のそういった姿勢が業界に広く認知されているから、「こいつに下手に声をかけたら本気になるから面倒だぞ」と思われて。

それで5年に1本とかになっちゃう。

トレンディドラマ時代は、早く自分のスタイルで仕事ができるようになりたくて、とにかく名前を売ってやろうと考えていたのだとか。


寺山修司さんは、1983年に47歳の若さでこの世を去りました。

寺山さんのことを知らなくても、『書を捨てよ、町へ出よう』という著書のタイトルを聞いたことがある人は多いでしょう。

社会規範や固定観念に勝負を挑んだ、反骨のクリエイターでした。

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