右翼団体「玄洋社」の総帥として活動した思想家の頭山満(とうやま みつる)。
韓国併合を推進するなど対外強硬論を主張していたため、敗戦後は歴史から抹殺されたものの、少しずつ評価が見直されている人物です。
そんな頭山の家系図をひも解くと、子孫に現役で活躍する写真家がいることが判明しました。
今回は写真家である子孫の詳細とともに、頭山の名言と伝説、若い頃の活動に迫りましょう。
頭山満のプロフィール
新年を心からお祝い申し上げます。本年が皆さんにとって素晴らしい年であるようにお祈りします。アジア主義者 頭山満の次の言葉に惹かれています。
「人間は魂さえ磨いて居ればよい。ほかに何も考えることはいらん。国も人も魂じゃ。魂の無い国、魂の無い人は国でも人でもない。」頭山満 pic.twitter.com/pQ1VCXd51c— 渡部篤 (@watanabeatushi) December 31, 2021
幼名:筒井乙次郎・筒井八郎・筒井満・山本満
生年月日:1855年5月27日(安政2年4月12日)
死没:1944年10月5日
身長:5尺7寸(172cm)
出身地:筑前国早良郡西新町(現在の福岡県福岡市)
最終学歴:興志塾
頭山満の家系図をチェック、子孫は写真家・頭山ゆう紀
頭山は1855年(安政2年)4月12日、筑前国早良郡西新町で福岡藩士・筒井亀策の三男としてうまれました。
16歳で父の従弟である山本兵蔵の養子となり、山本姓を名乗ります。
その後は実家に戻り、今度は母方の頭山家に婿入りし、頭山姓となりました。
頭山の子孫にあたるのが、1983年生まれの写真家・頭山ゆう紀さんです。『境界線13』や『さすらい』などの写真集を発表しています。
頭山は高祖父の兄弟にあたります。2人は養子同士の兄弟でした。
ゆう紀さんは中学時代から写真を撮ることが趣味だったそうです。
バンド活動をしていたとき「ライブを撮影したい」という気持ちが強まり、やがて音楽よりも写真への関心が高まっていきます。
やがてプロの写真家を目指し、専門学校・東京ビジュアルアーツの写真学科に進学しました。
憧れの写真家は被爆者の遺品を撮影した写真集『ひろしま』で知られる石内都さんで、同作は歴史について考える大きなきっかけとなったそうですよ。
石内都さんの『ひろしま』をまた見る。この鮮やかな模様に袖を通した人のことを考える。お洒落したり繕ったり、くだらない冗談言ったり明日のことを考えたりしてたんだろうなと、肌や表情が見えてくるような、服。特別ではない、自分と地続きの誰か。 pic.twitter.com/VuxyVA2PaA
— 松浦 だるま (@darumaym) August 6, 2020
元々ゆう紀さんは、先祖を遠い存在として捉えていました。
しかし戦前の右翼青年たちを題材とした写真集『超国家主義』の撮影に臨んで以来、歴史が現在まで地続きになっていることを実感したそうです。
撮影時には「右翼の大物」と呼ばれた先祖である頭山の墓も撮影して話題となりました。
頭山ゆう紀さんの写真展のために、頭山満の墓の写真を額装。会場は新井薬師前スタジオ35分。 pic.twitter.com/qrJ9BhPr1I
— 柿島貴志|POETIC SCAPE (@kakishima) August 1, 2018
「写真はルーツに結びやすい表現かも」と語り、詳しくなかった先祖の思想や生涯に目を向け始めたゆう紀さん。
今後も社会や時代精神を考えさせる写真を多く撮影し、『ひろしま』のような歴史に残る写真集を発表するのかもしれませんね。
頭山満の名言はおひとりさまに刺さる
頭山の長兄である亀来によると、頭山は幼少期から「1人でも寂しくない」と口にしていたそうです。
多くの人は独りぼっちでいることを寂しがるものですが、頭山は一向に平気でした。
弟子たちに対しても「1人でいても寂しくない人間になるように」と指導していました。
しかしいざ困ったときに、誰も支えてくれる人がいないのは心もとないですよね。
ここで注意すべきなのは、頭山は決して「友人を作らず、独りぼっちでいるべき」と主張したわけではないことです。
おそらく彼は個々が自立して、自分の良い部分を発揮しながら、理想の人生を歩むべきだと考えていたのでしょう。
現代ではあえて結婚をせず、自分の力だけで生き続ける人が増えている中、彼の言葉に励まされる人は多いかもしれませんね。
頭山満のカリスマ的伝説、インドの独立運動もサポート
幕末から昭和までという激動の時代を生き抜いた「アジアの巨人」である頭山。
頭山は官僚でも政治家でもなかった一浪人でしたが、薩長の藩閥政府に恐れられるほどの力を持つ人物でした。
国の問題を我がこととして捉え、選挙や政治に干渉し、要人たちを動かしています。
また右翼でありながらアメリカ領フィリピン、イギリス領インドの独立運動もサポートしていました。
おそらく東洋の民族が生きやすい世界を作るためなら、時には思想や資金に捉われず、自らの正義感だけを軸に活動していたのでしょう。
*「戦前の右翼の巨頭・頭山満は鉱毒被害の救済に奔走した田中正造を尊敬し顕彰碑を建立」
… 思想的には真逆であったが、「義氣堂々貫白紅」と揮毫。
民族派の頭山は「田中正造翁こそ真の愛国者である」と絶賛した。
カネをもらえばどちらにでもなびく昨今のビジネス右翼とは違った。 pic.twitter.com/9gVaC1FBr9
— Hiroshi Matsuura (@HiroshiMatsuur2) May 30, 2019
立場は民間人でありながら、国内外の政治に干渉して名を残した、カリスマ的活動家だったのです。
頭山満の若い頃の活動
頭山は南北朝時代の英雄・楠正成(くすのき まさしげ)に憧れていた11歳の頃、家の庭にクスノキを植えました。
「クスノキよ、もし俺がつまらない人間になってしまったら、そのときは枯れて俺を戒めてくれ」
と願いを込めたそうです。
14歳のとき、これまで「八郎」と名乗っていた頭山は、頭山家に婿入りしたことをきっかけに改名を決意。
しかし「満」という名前には、以下のように主張して反対する人がいたそうです。
「月は満ちるが必ず欠けてしまう。完璧すぎる名前は衰運の兆しがあるから、ずっと上り調子な名前の方が良いだろう」
その人の提案に対して頭山は、
「俺は名前負けする人間ではない」
と豪快に笑い、「頭山満」と改名したのです。
頭山は自身の言葉通り「つまらない人間」や「名前負けする人間」とはなりませんでした。
「弱きアジアを助け、強き欧米をくじく」というモットーのもとで活動し、明治政府との闘争やアジア解放に身を投じました。
「アジアの巨人」が植えたクスノキは、彼の見事な生涯を讃えるかのように、2023年現在も福岡県福岡市早良区にある生家跡で立派に葉を付けています。
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