高峰三枝子、高峰秀子との関係に迫る!自宅で過ごした晩年&死因の真相

昭和の映画界を彩った高峰三枝子さん。その華やかな活躍の裏には、知られざるドラマが隠されていました。同姓の女優・高峰秀子さんとの不思議な縁、政治家も関わる豪邸の秘密、そして晩年の静かな日々と最期。

これらのエピソードは、彼女の人生が単なる成功物語ではなく、時代の変遷と共に歩んだ複雑な軌跡であったことを物語っています。今回は、高峰三枝子さんの知られざる素顔に迫ります。

高峰三枝子と高峰秀子、同姓の大女優の不思議な縁

昭和の映画界を彩った二人の大女優、高峰三枝子さんと高峰秀子さん。同じ「高峰」という姓を持ちながら、血縁関係のない二人の女優が同時代に活躍したことは、多くの人々の興味を引きました。二人は同姓ながら親族関係はなく、それぞれ独自の輝かしいキャリアを築いた別々の女優でした。

高峰三枝子さんは1918年12月2日生まれ、一方の高峰秀子さんは1924年3月27日生まれと、年齢差は約6歳でした。しかし、デビュー時期を比べると、高峰秀子さんの方が先輩にあたります。5歳でデビューした高峰秀子さんに対し、三枝子さんは18歳でデビューしたからです。

二人とも「歌う映画女優」として知られ、映画だけでなく歌手としても活躍しました。高峰三枝子さんは「純情二重奏」「湖畔の宿」などのヒット曲を持ち、高峰秀子さんも「煙草屋の娘」「森の水車」などで歌声を披露しています。

共演作品と対談で見える二人の関係

二人の女優は、いくつかの接点を持っていました。1954年の映画「女の園」や1956年の「子供の眼」で共演を果たしています。また、1955年頃には雑誌「映画ファン」の「同姓対談」コーナーで対談を行っています。この対談では、二人がタメ口で話す様子が見られ、親しい関係性がうかがえます。

興味深いことに、二人とも「西遊記」関連の作品に出演しています。高峰秀子さんは1940年の映画「孫悟空」でおとぎの国のお姫様を演じ、高峰三枝子さんは1978年から1980年にかけて放送されたテレビドラマ「西遊記シリーズ」で釈迦如来を演じました。

  • 高峰三枝子と高峰秀子は血縁関係のない同姓の女優
  • 二人とも「歌う映画女優」として活躍
  • 「女の園」「子供の眼」で共演経験あり

二人の女優は、テレビ番組でも活躍しました。高峰秀子さんは「小川宏ショー」の対談コーナーを担当し、一方の三枝子さんは「3時のあなた」の司会を務めるなど、それぞれ異なる番組で視聴者を魅了しました。

このように、高峰三枝子さんと高峰秀子さんは、同姓で同時代に活躍した女優という共通点を持ちながら、それぞれ独自の魅力と才能で日本の芸能界に大きな足跡を残しました。二人の存在は、昭和の映画黄金期を象徴する存在と言えるでしょう。

高峰三枝子の自宅、豪邸から政治の舞台へ

高峰三枝子さんの自宅は、その規模と歴史的な背景から注目を集めました。彼女が所有していた邸宅は、東京都渋谷区南平台町に位置し、その広さと豪華さは当時の芸能人の中でも屈指のものでした。

この邸宅は、敷地面積が約500坪、建物の床面積が約100坪という大規模なものでした。その広さは、当時の一般的な住宅と比べると驚異的なものでした。このような大邸宅を所有していたことからも、高峰三枝子さんの女優としての成功と人気の高さがうかがえます。

政治家との意外な関係

高峰三枝子さんの邸宅は、1956年から興味深い使われ方をしました。当時の政治家である岸信介元首相が、この邸宅を借り受け、自宅兼迎賓館として使用したのです。岸元首相は、隣に住んでいた高峰三枝子さんの邸宅を借りることになりました。

この時の家賃は、月額15万5,800円だったと言われています。当時の物価を考えると、これはかなりの高額でした。例えば、昭和35年の大学卒国家公務員上級職試験合格者の初任給が月額1万2,900円だったことを考えると、その金額の大きさがわかります。

岸元首相が借りていた期間は不明確ですが、首相を退任した後は返却したようです。その後、1964年頃には、この建物を統一教会が借りて本部として使用していたという情報もあります。

  • 高峰三枝子の自宅は約500坪の敷地に約100坪の建物
  • 岸信介元首相が自宅兼迎賓館として借用
  • 月額15万5,800円という高額な家賃

邸宅の変遷と現在

高峰三枝子さんの大邸宅は、時代とともに変化を遂げました。昭和44年(1969年)に、彼女は家を処分することになります。その跡地には、秀和レジデンスというマンションが建設されました。

現在、この場所には二棟の白亜のマンションが並んでそびえ立っています。特徴的な南欧風の白壁に青い瓦屋根は、1960年代後半から70年代にかけて高級マンションの象徴のように思われていました。

これらのマンションの成立は、日米安保締結という安全保障の担保と、その後の高度経済成長期における日本の繁栄を象徴しているとも言えるでしょう。かつての高峰三枝子さんの邸宅があった場所が、時代の変遷とともに姿を変え、現代の都市景観の一部となっているのです。

高峰三枝子さんの自宅の歴史は、単なる一芸能人の住まいの物語ではなく、日本の戦後史や政治、経済の変遷を映し出す鏡のような存在だったと言えるでしょう。彼女の邸宅が政治家に借り受けられ、その後マンションに姿を変えていく過程は、日本社会の変化そのものを体現しているかのようです。

このように、高峰三枝子さんの自宅は、彼女の女優としての成功を物語るだけでなく、日本の戦後史における興味深いエピソードの舞台となりました。その豪邸は、芸能界の華やかさと政治の世界が交錯する特異な場所となり、時代とともに姿を変えながらも、その場所に刻まれた歴史は今も人々の記憶に残り続けているのです。

高峰三枝子の晩年と最期

高峰三枝子さんの晩年は、華やかな全盛期とは対照的に、静かで落ち着いた日々を過ごしていたようです。1980年代に入ると、テレビドラマや映画への出演は減少しましたが、それでも時折メディアに登場し、その存在感を示していました。

最後の出演作品

高峰三枝子さんの最後の出演作品は、1990年に公開された映画「花の季節」でした。この作品は、彼女の長年の芸能生活の集大成とも言える役柄を演じており、多くのファンに感動を与えました。この作品が遺作となったことは、彼女の女優人生が最後まで輝かしいものであったことを示しています。

晩年の高峰さんは、若い頃のような派手な活動は控えめになりましたが、それでも芸能界への愛着は強く持ち続けていました。テレビのバラエティ番組などにゲスト出演し、昔話や芸能界の裏話を披露することもありました。その際には、若い世代の芸能人たちからも尊敬の眼差しを向けられ、大先輩としての存在感を示していました。

健康状態の変化

1990年に入ると、高峰三枝子さんの健康状態に変化が現れ始めました。具体的な症状については公式な発表がなかったため、詳細は不明です。しかし、周囲の証言によると、体調の変化を感じつつも、前向きな姿勢を崩さなかったと言われています。

  • 1990年4月18日に自宅で倒れる
  • 世田谷区の日産厚生会川崎病院に緊急搬送
  • 一時的に意識回復するも、5月25日に容体が急変

高峰三枝子の最期と死因

1990年4月18日、高峰三枝子さんは東京都大田区田園調布の自宅で突然倒れました。すぐに世田谷区の日産厚生会川崎病院に緊急搬送され、集中治療を受けることになりました。

入院中の様子

病院に搬送された後、高峰さんの意識は一時的に回復しました。この時、彼女は周囲の人々に「早く仕事に戻りたい」と語ったと言われています。この言葉からは、最後まで女優としての情熱を持ち続けていた高峰三枝子さんの姿勢がうかがえます。

しかし、入院から約1ヶ月後の5月25日、高峰さんの容体が再び急変しました。医療チームの懸命の努力にもかかわらず、状態は好転せず、2日後の5月27日午後5時30分、高峰三枝子さんは71年の生涯を閉じました。

死因について

高峰三枝子さんの正式な死因は脳梗塞でした。脳梗塞は、脳の血管が詰まることで脳の一部に血液が行き渡らなくなる病気です。突然の発症から最期までの経過が比較的短かったことから、重度の脳梗塞だったと推測されます。

脳梗塞は、高齢者に多い病気の一つですが、高峰さんの場合、71歳という比較的若い年齢での発症でした。これには、長年の芸能活動によるストレスや不規則な生活リズムが影響した可能性も指摘されています。ただし、これは推測の域を出ず、公式な見解ではありません。

  • 正式な死因は脳梗塞
  • 発症から死去までの期間が約1ヶ月と比較的短い
  • 71歳という比較的若い年齢での発症

高峰三枝子の遺産と後世への影響

高峰三枝子さんの突然の死は、芸能界に大きな衝撃を与えました。多くの芸能人や関係者が彼女の死を悼み、追悼の言葉を寄せました。

追悼と評価

高峰さんの葬儀には、芸能界の大物から若手まで多くの人々が参列し、その生前の功績を称えました。特に、彼女と共演経験のある俳優や監督たちからは、その演技力の高さや仕事に対する真摯な姿勢を評価する声が多く聞かれました。

また、音楽業界からも多くの追悼の声が上がりました。「歌う映画スター」として多くのヒット曲を残した高峰さんの音楽的才能を称える声が相次ぎました。

後世への影響

高峰三枝子さんの死後、彼女の作品や音楽は再評価され、若い世代にも注目されるようになりました。特に、彼女の代表作である「暖流」や「犬神家の一族」などの映画は、日本映画史に残る名作として高く評価され続けています。

また、彼女の歌唱力と表現力は、後世の歌手たちにも大きな影響を与えました。「純情二重奏」や「湖畔の宿」などのヒット曲は、今でも多くのアーティストによってカバーされ、その魅力が受け継がれています。

高峰三枝子さんの死は、日本の芸能界に大きな損失をもたらしましたが、同時に彼女の残した作品や音楽、そして芸能人としての生き方は、後世に大きな影響を与え続けています。彼女の遺産は、日本の芸能文化の重要な一部として、今もなお多くの人々に愛され、記憶されているのです。

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