中原中也の死因は? 酒好きな性格がわかるエピソード。鎌倉との縁、愛した旅館

『山羊の歌』、『在りし日の歌』などで知られる詩人・中原中也(なかはら ちゅうや)。

30歳の若さで亡くなりましたが、死因は何だったのでしょうか。

また今回は中也について、酒好きな性格を物語るエピソード、鎌倉との関係、愛した旅館のことも見ていきましょう。

中原中也のプロフィール

本名:中原中也(旧姓:柏原)

生年月日:1907年4月29日

死没:1937年10月22日

身長:150cm前後

出身地:山口県および広島県

最終学歴:東京外国語学校専修科仏語部(現在の東京外国語大学)

中原中也の死因は?

まずは、中也がなぜ若くして亡くなったかについて見ていきましょう。


1934年、詩集『山羊の歌』を刊行し好評を得ていた中也。

2年後には愛読していた詩人であるアルチュール・ランボーの翻訳集を発表し、初の印税を受け取るなど、詩作、翻訳活動が軌道に乗り始めていました。

その矢先、2歳の長男・文也を小児結核で失います。

悲しみに暮れた中也は、徐々に体調を崩し始め、幻聴などに悩まされるようになりました。

療養に入るものの、痛風や歩行困難が生じるなど、症状は悪化の一途をたどります。

1937年10月5日に鎌倉駅前で倒れ、緊急入院し、22日に亡くなりました。

死因は結核性の脳膜炎と言われています。

詩人としてまさにこれから活躍していこうという矢先、息子の死という悲劇に見舞われ、心身ともに病んでいったことが原因ではないでしょうか。

中原中也の酒にまつわるエピソード

酒豪として知られた中也。

体調を崩す前から、酒が身体をむしばんでいた可能性もありそうですね。

文豪の中でも指折りの酒好きで、酔うと非常にたちが悪かったと言われています。

そんな酒好きの性格を物語るエピソードに、太宰治から恐れられていたというものがあります。

いったん酒に酔うと中也は深夜でも構わず太宰の家へやって来て、暴言を吐いていたそうです。

太宰は中也を恐れ、布団をかぶっておびえていました。

元々は作家仲間として楽しく飲むような関係だったのですが、どこかのタイミングで中也が悪酔いし、太宰に絡むということが頻繁にあったようです。

この2人と檀一雄の3人で『青い花』という同人誌を発行することが決まり、東中野の飲み屋でメンバーが集い飲むことになりました。

このとき中也が「好きな花は何だ」と太宰に訊ね、太宰が「桃の花」と答えると、いきなりつかみかかって乱闘騒ぎに発展したと言われています。

太宰は中也について「とても付き合いきれない」と語り、やがて合うのを避けるようになりました。

結局『青い花』が、たった1号で活動停止していることからも、中也と太宰が良い関係になかったことがうかがえます。

太宰としては年上の中也に配慮して、口ごたえするよりは縁を切った方が互いのために良いと考えたのかもしれませんね。

中原中也と鎌倉の関係

次に中也が倒れた場所として有名な鎌倉が、彼とどんな関係にあったのか見ていきましょう。


元々は妻・孝子と東京に暮らしていた中也ですが、息子の文也を亡くしてからは、その面影を思い出させる場所から離れたいと考えるようになります。

こうして転居したのが、鎌倉でした。

扇ヶ谷(おうぎがやつ)という場所に住み、鎌倉駅で病に倒れ入院した先は鎌倉養生院(清川病院)なので、亡くなるまで鎌倉に在住していたことがわかりました。

かつて恋敵として仲たがいした評論家・小林秀雄と和解した場所も、鎌倉の妙本寺だったと言われています。

実は小林も扇ヶ谷に住んでいたのですが、中也はそのことを知らせず同じ区域に転居。

かつて中也の恋人を奪った関係にある小林と、1937年の晩春に再会し、妙本寺でひと時を過ごしています。

その後仲直りのためか、2人でビールを飲みに行きました。

しかしそれから間もなく、中也は亡くなっています。

もしかすると、自分の死期を予想して、小林と仲直りをしておこうと決意したのかもしれませんね。

中原中也が愛した旅館とは

ここから中也が愛した旅館についてご紹介します。

彼が結婚式を挙げた場所として知られる老舗旅館が、地元の山口県にある「湯田温泉 西村屋」でした。

1906(明治39)年に創業された温泉宿で、源泉かけ流しの温泉が名物。

中也ファンを始め多くの人に愛された宿でしたが、2017年に破産してしまいました。

その後、リニューアルオープンを目指していたものの、2023年現在もリニューアルしたという情報はないようです。

地方への旅行者も年々減少していたため、経営難にあったようですので、再開は難しいのかもしれません。

別会社として経営するなど、何とか持ち直してもらいたいものですね。


今回は中原中也についてご紹介しました。

薄幸の印象がある詩人でしたが、実際は酒を愛する豪快な男性だったのでしょう。

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コメント

  1. 中也さんはイケメンで性格も良かったのに、何故酒に溺れたのかな❓今更言っても遅いが。