思想家、美術史家として活躍した岡倉天心(おかくら てんしん)。
今回は、彼が具体的にどのような思想の持ち主だったのか確認します。
またフェノロサと横山大観との関係、インドへの旅、代表作『茶の本』からうかがえる茶道観に迫ります。
岡倉天心のプロフィール
本名:岡倉覚三(かくぞう)
生年月日:1863年2月14日(文久2年12月26日)
死没:1913年9月2日
身長:不明
出身地:神奈川県、東京都
最終学歴:東京開成所(現在の東京大学)
岡倉天心の思想は?
天心はどのような思想の持ち主だったのでしょう。
1863年の今日は日本の思想家、文人の岡倉天心が生まれた日です。語学にすぐれ、ニューヨークで『茶の本』を出版しました。日本の美術史学の開拓者で日本美術概念のの確立に寄与し、英文で著作を発表しています。本名は覚三(かくぞう)。 pic.twitter.com/U9BRG12FLy
— 愛書家日誌 (@aishokyo) February 13, 2021
彼は代表作『東洋の理想』の冒頭で、「Asia is one」という言葉を掲げました。
「アジアは一つ」は、天心の思想をシンプルに表す言葉ですが、「アジアが一丸となって協力し合おう」という意味ではありません。
日本文化が、西アジアと東アジアを含むアジア全体の文化遺産を受け入れ、それを醸成させることで成立したと述べているのです。
たとえば宗教では、中国伝来の儒教、インド伝来の仏教が日本に定着しました。
日本にはアジア諸国の思想が浸透している点で、「アジアは混然一体である」と天心は述べたのです。
しかし彼の「アジアは一つ」という思想は、太平洋戦争においてアジア圏が一丸となって戦うためのスローガンにされました。
そして戦後は、日本と他のアジア諸国との対立が加速していくのです。
天心が日本文化に対して抱いた「アジアは一つ」という思想は歪曲され、皮肉にもアジアの分断を招いてしまったのかもしれません。
岡倉天心とフェノロサ
天心を語る上で欠かせない人物は、東洋美術史家のアーネスト・フェノロサです。
ハーバード大学卒業後、明治時代の「お雇い外国人」として来日し、東京大学で哲学や政治学の講義を担当しました。
哲学と政治学が専門だったものの、東洋美術に造詣が深く、暇さえあれば歴史的建造物や美術品を鑑賞したといいます。
やがてフェノロサは、文化財調査使節の代表となりました。
天心はフェノロサの教え子の1人で、通訳兼助手として彼に同行。
【岡倉天心(1863~1913)】横浜生まれ文部省に勤務。英語が堪能だった為、御雇外国人フェノロサの助手となり法隆寺夢殿の秘仏・救世観音を開扉等、10年間で21万件もの仏像・文化財を調査。後に東京美術学校(東京芸大)の初代校長となる pic.twitter.com/5ftxqjowPG
— 美しい日本の仏像 (@j_butsuzo) January 23, 2021
1886年(明治19年)には、200年もの間、開かれたことのなかった法隆寺夢殿の厨子を開扉します。
扉の中には、穏やかにほほ笑む救世観音像が安置されていました。
法隆寺夢殿救世観音像:法隆寺夢殿の本尊で、聖徳太子の等身大像とされる。長年秘仏とされてきたが、1884年にフェノロサと岡倉天心によって、何重にもおおわれていた白布がのぞかれた。保存状態が極めて良い北魏様式の仏像。 pic.twitter.com/jiroN3Olxi
— 仏像紹介BOT (@butsuzobot) February 1, 2021
こうしてフェノロサは、日本で忘れ去られていた貴重な美術品を発見。
日本の文化財保存に大きく貢献したのです。
フェノロサの功績はもちろん大きいですが、通訳として任務を果たした天心の役割も重大だったといえますね。
そして1889年(明治22年)、天心は日本における美術教育の最高学府東京美術学校を開校。
初代校長に天心、初代副校長にフェノロサが就任しました。
2人は二人三脚で努力した結果、日本美術を守り、後進を育成していくことに成功したのです。
岡倉天心と横山大観
近代日本画の巨匠である横山大観。
近代日本画の巨匠、横山大観。
大観は大変な酒好きで、人生後半の50年はご飯を殆ど口にせず、酒と少量の野菜だけで済ませていたそう。
そんな酒豪も若い頃は下戸でした。
師の岡倉天心に「酒の一升くらい飲めずにどうする」と叱咤されてから、飲んでは吐いての訓練の結果、酒に強くなったそうです😳 pic.twitter.com/06MM6nJHZ9— RekiShock(レキショック)@日本史情報発信中 (@Reki_Shock_) March 15, 2021
彼は開校したばかりの東京美術学校へ、第1期生として入学しました。
初代校長の天心から学び、卒業後は母校の助教授になっています。
大観は師匠である天心を、卒業後も慕い続けていました。
しかし1898年(明治31年)、周囲の教員と不仲になっていた天心に対する排斥運動が起き、天心は失脚します。
理由は帝国博物館館長の九鬼隆一(くき りゅういち)の妻である九鬼波津子と、天心との不倫が噂されたためでした。
変わらず天心を慕っていた大観は、師匠と共に辞職。
そして2人は、新たな居場所として美術家団体「日本美術院」を設立しました。
#岡倉天心 はスキャンダルで校長職とパトロンを失いましたが自力で学校を創り、お金を集め日本を代表する作家を育てました。サバイバル的で厳しい環境でしたが、おそらく旧職場にいるよりも成果を出せたのでしょう。学問の自由は学校や学会の外にもあるし、むしろ可能性は広がる❓🤔#北茨城市 pic.twitter.com/7vxCVLgy18
— wata@いばらき観光マイスター (@wata_ibamemo) October 5, 2020
スキャンダルが設立の発端とはいえ、日本を代表する美術団体を残した2人の功績は大きいといえるでしょう。
インドへの旅
天心は38歳から9か月間、インドを旅しています。
現地では著名な活動家である、ヴィヴェーカーナンダとも交流しました。
突然インドへ渡った理由は不明ですが、美術学校辞任や日本美術院の経営難による挫折からの逃避行だったともいわれています。
ただそれだけでなく、彼は仏教の本場インドで、東洋の思想について突き詰めて考えたかった可能性が高そうです。
インド滞在中の天心が書いたとされる『東洋の覚醒』では、東洋思想の独自性や歴史についてまとめています。
天心は西洋文化ばかりを取り入れようとする日本の近代化に疑問を抱き、東洋文化と思想の価値を考え直そうとしたのでしょう。
インドへ赴き、ヒンドゥー教徒のヴィヴェーカーナンダとも交友を結んだ天心。
西洋化に忙しい日本といったん距離を取った上で、東洋文化の価値を伝えるため再起しようと考えたのかもしれません。
『茶の本』に見る茶道観
天心の名著とされているのが、1906年(明治39年)、茶道の精神を英文でしたためた『茶の本』。
(25)読了
「茶の本」岡倉天心の書いた茶の本。
時代背景などの描写もあり、岡倉天心のグローバルに対する考え方についてとても興味深い。「日々是好日」読んでからお茶の世界が気になって購入。茶の歴史に始まり、宗教と茶の基礎を学べる気がする。
ただ、わたしには少し難しかった笑#読了 pic.twitter.com/f07GMZO8xZ
— さとー|ゆるい読書垢 (@booknosatou) February 5, 2020
新渡戸稲造が日本人の倫理観を説いた『武士道』と共に、日本文化を世界へ伝える上で重要な役割を果たしました。
日本が日露戦争に勝利し、西洋列強と肩を並べ始めている時代。
天心は世界へ向けて、茶道から日本人の美意識を解説しました。
茶道を「Tea Ceremony」という世界共通の概念に押し上げた点で、天心の業績は大きいでしょう。
ただし天心は、茶道の具体的な方法論を説いたわけではありません。
彼が『茶の本』で紹介したのは、日本のあらゆる生活文化は、茶道の影響を受けているということです。
たとえば質素な服装、繊細な日本料理と食事の作法、建築物や花、絵画の鑑賞方法など。
多くの日本文化の作法を形成したのは、茶道文化と茶人の心得だったのです。
西洋人に対して、日本文化のあり方を紹介した名著といえますね。
天心は茶道こそ、日本文化の源流と考えていたのでしょう。
美術学校辞職後、インドやアメリカを訪問し、日本を遠ざけていた印象のある天心。
しかしそれは、近代化が加速する日本をいったん逃れ、日本の魅力を再認識するための行動だったのかもしれません。
コメント