キリスト教伝道者で思想家の内村鑑三(うちむら かんぞう)。
1891年(明治24年)、「不敬事件」でバッシングされたことで知られています。
今回は内村の不敬事件がなぜ起きたか確認しましょう。
また彼がどんな人だったか、思想、生涯、子孫の詳細にも迫ります。
内村鑑三のプロフィール
本名:内村鑑三
生年月日: 1861年3月23日(万延2年2月13日)
死没:1930年3月28日
身長:約170cm
出身地:東京都、群馬県
最終学歴:札幌農学校(現在の北海道大学)
不敬事件なぜ起きた?
まず内村の不敬事件がなぜ起きたか、事件の詳細から見ていきます。
内村は1890年(明治23年)から、第一高等中学校(現在の東京大学教養学部)で嘱託教員を務めていました。
同年、国民へ向けた教育方針「教育敕語」が発布されます。
1891年(明治24年)、内村が勤めていた第一高等中学校の講堂で、「教育勅語奉読式」が行われました。
教員と生徒は、教育勅語の前へ進み、明治天皇のサインに対して最敬礼するのが決まりでした。
内村はサインへの最敬礼を、「宗教的儀礼」と考えたそうです。
そこでキリスト教徒だった彼は、宗教が異なるため、最敬礼ではなくほんの少し頭を下げただけで降壇。
1891年の1月9日、第一高等中学校講師の内村鑑三が、教育勅語への拝礼をキリスト教徒の立場から拒否したため免職された「不敬事件」が起こりました。
内村は勅語の最後の明治天皇の署名に、最敬礼せず、少しか頭を下げませんでした。
これが不敬であると問題になり、在任わずか5ヶ月で退職しました。 pic.twitter.com/MRE5ibOjt4— RekiShock(レキショック)@日本史情報発信中 (@Reki_Shock_) January 9, 2021
たったそれだけの出来事でしたが、内村には天皇を敬う気持ちが不足しているとして、彼は非難されるのです。
校長から「最敬礼は宗教とは別問題」と説得された内村は、改めて最敬礼することに同意。
しかし内村はインフルエンザ感染により動けなかったため、代理人が最敬礼したそうです。
するとマスコミが大々的に「内村鑑三不敬事件」として喧伝。
病気の悪化で意識不明だった内村ですが、回復した時には全国的に事件の情報が広がっていました。
こうして彼は2月3日、学校を解雇されるのです。
なぜここまで彼がバッシングされたかというと、当時日本では天皇が神格化されていたためでした。
内村は最敬礼を、宗教的な儀礼と捉えてしまいます。
結果的に周囲から、「神聖な天皇を敬っていない」と思い込まれたのです。
日本人は特定の宗教を持たず、宗教的対立や紛争がない国とされてきました。
しかしいざとなれば日本人は、宗教的に不寛容さを見せ得ることがうかがえる事件といえます。
内村鑑三はどんな人?
内村は不敬事件のイメージが強く、「天皇制に反対」していた人物と思われがちです。
しかし彼はむしろ天皇を重んじていました。
ただ宗教的に異なる儀礼を強要されると、それを拒絶するほど信仰心があつい人物だったことも事実です。
不敬事件で職を失ったのち、療養中に看病してくれた妻が病死するなど、彼は不幸に見舞われ続けました。
そこで東京を離れ札幌へ向かい、母校札幌農学校の友人だった新渡戸稲造と宮部金吾の元で過ごします。
しばらくは教会での講義や、キリスト教信者向け新聞への記事執筆など、仲間に活動の場を提供してもらいながら生活。
徐々に不幸から立ち直った内村は、キリスト教伝道者としての道を進むことになるのです。
内村鑑三の自伝『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』武士であった祖父の平和を憂う気持ち、神道仏教しかなかった日本人の神への考え方、キリスト教の立ち位置
今の考え方のベースになった福沢諭吉の本を読んでいる時はなんだか啓蒙されているような気がしたけど #読了 #読書好きな人と繋がりたい pic.twitter.com/js0ruuUq6v— mt.soil (@soil_mt) November 12, 2020
教員へ戻れないことはわかっていた内村。
事件以降は、信仰心を支えに、布教活動や協会設立活動に尽力したのでしょう。
キリスト教徒としての思想
キリスト教伝道者で思想家だった内村。
日露戦争時は、キリスト教徒としての立場から非戦論を唱えました。
しかし彼の思想は独特だったとされています。
内村は戦争反対を訴えていたものの、「徴兵拒否」を望む若者に対しては、兵役へ行くことをすすめました。
キリストが他人のために死んだのと同じ原理で、若者は戦場で命をかけるべきだと考えていたのです。
つまり戦場での死は、キリストの死と同じく「自己犠牲」であり、戦死した魂は神の元へ行くということになります。
戦争自体には反対だが、戦争に直面した際は「自己犠牲」として戦場へ向かうべきという独自の思想。
一見矛盾している彼の思想は、「無教会平和主義」として知られています。
内村鑑三は「一人のキリスト教平和主義者の戦場での死は不信仰者の死よりもはるかに価値のある犠牲として神に受け入れられる。神の意志に従わなければ、他人を自分の代りに戦場に向かわせる兵役拒否者は臆病である」と述べて、弟子に兵役を避けないよう呼びかけたとのこと。
目からウロコ。
— さくら (@KyokoDoppel) March 27, 2018
戦争の回避を理想としつつも、いざ戦争が起きた時に兵役を拒否すれば、拒否した人の代わりに誰かが死ぬことになる。
この問題を突き詰めて考えた結果生まれた、内村独自の思想といえるでしょう。
内村鑑三の生涯
内村は、高崎藩士だった父の宜之と、母ヤソの長男に生まれました。
江戸小石川の武家屋敷で生まれましたが、父が謹慎処分を受けたため、5歳の時に群馬県高崎市へ転居。
幼少期から英語を学び、12歳から東京へ戻り、英語学校で学んでいます。
16歳で2期生として札幌農学校へ入学し、生涯の友となる新渡戸稲造と出会いました。
農学校の方針で、半ば強制的に洗礼を受け、キリスト教徒となります。
そして首席で卒業後、北海道開拓使民事局へ就職。
一方で信者としても活動し、札幌独立キリスト教会を設立しました。
アメリカ留学を経て、帰国後は各地で英語、聖書、水産学の講義を担当。
先述した不敬事件で精神を病み、さらに献身的に支えてくれた妻の加寿子を喪いました。
その後は親友の新渡戸らに支えられ、伝道者となります。
プライベートでは、岡崎藩士の娘である静子と4度目の結婚を果たし、娘と息子をもうけました。
伝道者としては、日本初の聖書雑誌「聖書之研究」を創刊し、平和を訴えています。
柏木にある聖書講堂にて、「パウロの武士道」をテーマに講演したのを最後に、1930年に70歳で心不全により亡くなりました。
遺言に従って雑誌「聖書之研究」は廃刊となります。
波乱万丈だった内村の生涯ですが、最期は家族に見守られ、穏やかに旅立ったそうです。
内村鑑三の子孫
内村には2人の子供がいました。
娘ルツ子は、原因不明の難病により、18歳で亡くなっています。
#内村鑑三 曰くへ解説
人生が不遇で失敗することがあっても、それは学びをしたことで、本番は死んだ後に住むところだ。内村は、聖書が言う永遠のいのちを本気で信じていたし(愛娘の葬りに当たって「ルツ子さん万歳」と叫んだ)、それを可能にするキリストの十字架による赦しを深く感謝していた。 pic.twitter.com/U3A8nHXUa6— 三浦三千春 (@mimiurajp) August 10, 2019
息子の祐之(ゆうし)は成人し、精神科医として活躍。
東京裁判のA級戦犯だった大川周明や帝銀事件の犯人とされた平沢貞通の精神鑑定を行っています。
父が「魂の医師」だったとすれば、息子は「心の医師」だったのです。
祐之の妻は翻訳家の内村美代子で、義父である内村の英文著作を訳しました。
さらに共愛学園小学校の大川義校長は、内村のひ孫にあたるそうです。
内村家の人々はインテリで、それぞれの専門分野を活かしながら、人々のために尽くしてきたのでしょう。
内村の思想は独特で、なかなか難解かもしれません。
まずは彼の生涯をひも解いて、どのような生涯の中で思想が形作られたのか考えてみるのがおすすめです。
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