岩倉具視は何した人?筋肉マッチョなキャラ&何藩?公家出身で幽棲旧宅は公開中

明治維新の際に重要な役割を果たした、政治家の岩倉具視(いわくら ともみ)。

『西郷どん』(2018年)や『青天を衝け』(2021年)など大河ドラマにも登場し、知名度の高い人物ですね。

今回は岩倉について、具体的に何をした人なのか見ていきましょう。

また筋肉マッチョで話題になっている、漫画キャラクターの岩倉について見ていきます。

さらに何藩の政治家なのか、公家なのか、公開中の幽棲旧宅についても確認します。

岩倉具視のプロフィール

幼名:周丸(かねまる)

生年月日:1825年10月26日(文政8年9月15日)

死没:1883年7月20日

身長:約160cm

出身地:山城国京都(現在の京都府京都市)

岩倉具視は何した人?

まず岩倉が何をした人物なのか見ていきます。

岩倉具視は中級貴族の堀川家に生まれ、下級貴族の岩倉家へ養子に入り、宮中に勤めました。


1858年(安政5年)、日米修好通商条約で、江戸幕府が朝廷の許可(勅許)を求めると反対の立場を取ります。

以降、孝明天皇の妹・和宮と将軍・徳川家茂の婚姻により、朝廷と幕府が手を結ぶ「公武合体」を推進しようとしました。

しかし反対派からの攻撃で、岩倉は宮中を去ります。

岩倉村に移り住んだ彼は、倒幕派の大久保利通や西郷隆盛らと連携し、倒幕運動を陰で推し進めました。

1867年(慶応3年)、大政奉還により、政権が幕府から朝廷に返されます。

翌年には旧幕府軍と新政府軍による、「鳥羽伏見の戦い」が起こりました。

新政府側の岩倉らが、新政府軍は「錦の御旗」を立てることを決議し、旗を見た数々の藩が新政府に味方。

結果的に新政府が戊辰戦争に勝利し、明治政府で岩倉は外務卿と右大臣に就任しました。

1871年(明治4年)から「岩倉使節団」の特命全権大使として、伊藤博文や木戸孝允らと欧米を視察。

欧米の文明に感化され、今の日本が武力で世界と戦っても勝ち目はないと悟りました。

帰国後は国内政治を優先させようと、征韓論に反対を表明。

不服とした西郷隆盛や板垣退助らと対立し、1874年(明治7年)に襲撃されますが、一命をとりとめました。

不平士族の反乱が各地で起きる一方、岩倉は華族の財産を保護する政策を統制していきます。

朝廷、新政府で暗躍した、大物人物といえますね。

筋肉マッチョの漫画キャラクターとは?

岩倉が筋肉マッチョに描かれた、漫画キャラクターが話題になっているようです。

2012年に発表された、橋本エイジさんによる漫画『ちるらん 新撰組鎮魂歌』。

新撰組をヤンキー風に描いた人気漫画で、2021年1月時点で累計200万部を発行しています。

『ちるらん』に登場する岩倉は、「禁中の怪物」と呼ばれる、筋肉マッチョで不気味なキャラクターです。

あまりの不気味さとインパクトある外見が、SNS上では話題になっています。

漫画キャラクターとして注目を集めている岩倉。

不気味なキャラクターとはいえ、漫画を読むうちに、親近感のある存在になっていくかもしれませんね。

岩倉具視は何藩の人?公家?

岩倉が何藩の政治家か気になる人は多いようです。

明治維新期に活躍した偉人は、西郷隆盛は薩摩藩、木戸孝允は長州藩などそれぞれの藩に属しています。

しかし岩倉は京都で公卿・堀河康親の次男として生まれ、同じく公卿の岩倉具慶(いわくら ともやす)の養子となりました。

つまり彼は藩ではなく公家出身で、朝廷に使えながら、政治家への道を進んだのです。

朝廷に有能な政治家がいなかった時代、珍しく政治の才覚に秀でた人物だったといえるでしょう。

岩倉具視の幽棲旧宅

岩倉は和宮を将軍へ降嫁させて公武合体を進めようとした結果、反対派に攻撃され、辞官を落飾。

1862年(文久2年)から5年間、洛北の岩倉村に幽棲します。

1864年(元治元年)、大工の自宅を購入し、増築して住み始めました。

旧宅は修理工事を経て、今でも保存公開されています。

一見すると茅葺の質素な建物ですが、主屋に玄関や床の間、縁側など立派な居住空間が広がっています。


主屋の東側には、岩倉の遺髪碑も祀られているとのこと。

明治維新で重要な役割を果たした政治家の気配を、今日に伝える貴重な施設といえるでしょう。

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