林芙美子の死因。養子と夫、家は数寄屋造り。その性格、川端康成の弔辞

『放浪記』や『浮雲』などの名作小説を執筆した林芙美子(はやし ふみこ)。

自伝的作品『放浪記』は舞台化され、森光子さんのでんぐり返しで有名になりましたね。

波乱万丈な彼女の生涯そのものが気になる人は多いでしょう。

今回は芙美子の死因、養子と夫の詳細、数寄屋造りの家、性格について詳しく見ていきます。

さらに彼女の死後、葬儀委員長を務めた川端康成による弔辞をご紹介します。

林芙美子のプロフィール

本名:林フミコ

生年月日:1903年12月31日

死没:1951年6月28日

身長:143cm

出身地:山口県下関市、福岡県門司市

最終学歴:尾道市立高等女学校(現在の広島県立尾道東高等学校)

林芙美子の死因は心臓麻痺

数々の名作を世に送り出した芙美子ですが、わずか47歳の若さで亡くなっています。

1951年6月27日、芙美子は「主婦の友」の連載記事を書くため料亭を2軒取材していました。


しかし帰宅後に苦しみ始め、翌日の明け方に急逝します。

死因は心臓麻痺で、世間の人々は「彼女はジャーナリズムによって殺された」と言ったそうです。

晩年は心臓が悪かったという芙美子ですが、売れっ子作家としてどんな仕事も断らなかったといいます。

さらにヘビースモーカーだったことで、心臓には大きな負担をかけていたのでしょう。

最後の取材は、医者の制止を振り切って行ったそうです。

売れっ子作家になるまでさまざまな職業を転々とし、恵まれない環境で過ごした芙美子。

作家として活動できることへのありがたみを胸に、どんな依頼にも真摯に応えようとしていたのでしょう。

彼女のストイックな性格が寿命を縮めてしまったのは、大変残念だったといえますね。

林芙美子の養子は事故死。内縁の夫は緑敏

仕事に情熱を注いだ芙美子ですが、家庭も重視していました。

内縁の夫・緑敏さんに支えられて文筆生活を続け、円満な家庭を築いていたのです。

実子に恵まれなかった分、1943年に生まれた泰(たい)ちゃんという男児を養子として引き取り、大切に育てます。

自伝的作品『放浪記』の奔放なイメージがある芙美子ですが、実際には家族に料理を作り、養子を育てた立派な家庭人だったのです。

しかし残念ながら、泰ちゃんは母の死から8年後の1959年、列車の中で転倒して頭を打ち亡くなります。

わずか16歳でした。

愛する妻と子供を失った緑敏さん。

悲しみを乗り越え、妻の作品の整理保存に努めたのち、1989年に87歳で亡くなりました。

彼は画学生だった23歳のときに芙美子と内縁の結婚をします。

誠実な性格だった彼は、妻の執筆活動を支え続けました。

芙美子は作家として大成したのち、母から「今のあなたがいるのは、緑敏さんのおかげ」と言われたそうです。

芙美子は「違うわ、才能のおかげよ」と反発し、親子喧嘩に発展しました。

かつて緑敏さんから、「お前の作品は大したものじゃない」と言われたことがあるため、根に持っていたのかもしれません。

しかし緑敏さんの存在の大きさは、彼女自身がもっともよくわかっていたはずです。

妻を支え続けた緑敏さんは、資料も立派に整理したのち、芙美子の姪姉妹に世話をされて平穏な晩年を過ごしました。

彼が天国で妻子に再会し、幸せに過ごしていると良いですね。

家は京風半数寄屋造りの邸宅

芙美子が晩年を過ごした家は、新宿区下落合の「林芙美子記念館」に保存されています。

彼女は1930年から落合に暮らし始め、9年後に土地を購入。

建築の勉強に励み、自ら新居の建設に乗り出しました。

設計者や大工と共に京都の家を見学し、材木を調査。

山口文象が設計し、京風の立派な数寄屋造りながら、庶民的な優しさを漂わせる魅力的な邸宅が完成しました。

芙美子は思い入れが詰まった家で執筆に励み、家族との幸せな時間を過ごしたのです。

竹林に囲まれた邸宅は年3回の特別公開時を除き、見学はできません。

古い建物のため、頻繁に公開すると傷んでしまうのです。

芙美子の息吹を感じられる異空間を覗きたい人は、特別公開の日程を確認してみると良いでしょう。

林芙美子は性格が悪いからこそ人気

雑草のような強さを持っていた芙美子。

ハングリー精神で貧しい境遇からのし上がった彼女は、決して温厚な性格ではありませんでした。

一言で表現してしまえば、性格が悪かったのです。

ライバル作家の原稿を「出版社に渡してあげる」と預かり、実際は机の中にしまっていました。

そして「あの原稿はダメだった」と言って返却するのです。

自分以外の作家が売れそうになるのを、あらゆる手段で阻止していました。

家庭人としては立派でしたが、作家としては嫌われ者だったのです。

ただ貧しさから抜け出した彼女の野性的な個性は、エリート女流作家にはないものでした。

『放浪記』の舞台は森光子さんから仲間由紀恵さんに代わり、泥臭い芙美子のイメージとは離れてしまいます。


しかし舞台の再演記録を更新し続けるほど、彼女独自の生涯が今なお多くの人を魅了し続けているといえるでしょう。

性格の悪さとほかにはない個性こそ、むしろ彼女の魅力になっているのです。

林芙美子に対する川端康成の辛辣な弔辞

1951年7月1日、芙美子の告別式が自宅で行われました。

近隣住民が多く参列した式では、葬儀委員長の川端康成が弔辞を述べました。

彼は芙美子について「自分の文学生命を保つため、他人に対してひどいことをした」と言及。

さらに「しかし故人は灰となります。死は罪悪を消滅させますから、故人を許してもらいたい」と続けるのです。

確かに芙美子は、自分の地位のためであればライバル作家を蹴落とすことも厭いませんでした。

ただし宮部みゆきさんは、このように辛辣な弔辞が許容される文学の世界を「おっかない」と感じたそうです。

芙美子の行動には目に余るものがあったかもしれません。


しかし彼女を単純な悪女として片付けてしまった川端の弔辞は、確かに「おっかない」でしょう。

優れた作品を残した故人に対しては、せめて葬儀の際は丁重な言葉を捧げるべきだったかもしれません。

今では芙美子の性格や悪事などではなく、作品そのものが評価されつつあるのが、せめてもの救いといえますね。

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