90年代半ば、『KNOCKIN’ ON YOUR DOOR』をはじめとするクオリティの高い楽曲でJ-POPシーンを彩ったL⇔R(エルアール)。
バンドの再始動が期待されるなか、黒沢健一(くろさわ けんいち)さんの闘病の公表はショッキングでした。
私生活が謎めいていたアーティストの一人ですが、結婚はしていたのでしょうか。
L⇔Rのメンバーや楽曲を提供したアーティストが口をそろえて「天才」と呼ぶ理由にも迫ります。
また実家や出身高校、死因となった脳腫瘍についてもみていきます。
黒沢健一は結婚していた?
1997年にL⇔Rが活動を休止してからは、ソロ活動のほか複数のユニットでも音楽活動を続けていた黒沢健一さん。
しかし2016年、48歳という若さで旅立ってしまいました。
L⇔Rのギタリストで実弟の黒沢秀樹さんによると、家族の見守るなか、安らかに眠るように逝ったとのことです。
この「家族」のなかに妻子が含まれていたか否かは明らかにされていません。
もとより黒沢健一さんのプライベート情報は皆無に等しく、結婚や子供に関しても手がかりがない状況です。
ネット上には「結婚していた」という書き込みもありますが、残念ながらソースが不明。
通夜および葬儀は近親者のみで営まれ、翌年には「黒沢健一を偲ぶ献花の会」も執り行われましたが、わかっているのはこれくらいで、結婚や子供についての確たる情報は得られませんでした。
「結婚していた」という書き込みが事実だとすれば、妻は一般人の可能性が高いですね。
黒沢さんは自身の私生活は公開したくないタイプだったのかもしれません。
黒沢健一は天才と呼んでしかるべきアーティスト
アマチュアバンドでコンテストやオーディションに出場していた高校時代から、すでにコンポーザーとしての才能を注目されていた黒沢健一さん。
19歳で契約作家としてプロデビューし、南野陽子さんら人気アイドルの楽曲やCM曲を提供するようになりました。
森高千里さんの『気分爽快』も黒沢さんが作曲したヒット曲のひとつ。
L⇔Rは1991年にデビューし、7枚目のシングル『KNOCKIN’ ON YOUR DOOR』が月9ドラマの主題歌に起用されてミリオンセラーに。
このタイアップは、かねてよりL⇔Rの楽曲を気に入っていたドラマのプロデューサーからの依頼でした。
「頭からガツンとくるような曲にしてほしい」という注文を受けてひらめいたのは、何かをコンコンと叩くようなイメージ。
ドアをノックするような音ではじまるイントロが有名ですね。
弟の秀樹さんによると、この曲は健一さんが一筆書きのように一瞬で仕上げた曲なのだそう。
天才と呼んでしかるべき人だった、と振り返る秀樹さん。
L⇔Rの名曲のなかには、まだ高校生だった健一さんが茨城の実家で書いた曲が何曲もあるそうです。
アーティスティックな性格で完璧主義なところもあったようで、一時期L⇔Rに在籍していた嶺川貴子さんは、「天才的天然少年」と表現。
レコーディングでは、「水中でオレンジをかじったみたいな音にして」などと言い、プロデューサーやエンジニアをきょとんとさせることもあったそう。
洗練されたメロディセンスはL⇔Rとソロ活動を通じて高く評価されていますが、その一方で、この人の曲はカラオケで歌ってはいけないという声も。
『KNOCKIN’ ON YOUR DOOR』をカラオケで上手く歌える人を見たことがない、と笑うのは親交の深かった徳山秀典さん。
ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド。
よりも沢山の音をならせる何かの上を飛び跳ねるような音楽家。
『天才』黒沢健一。
黒沢さんの歌、すーっと耳に入ってくるけど歌ってみるとメロディーは真逆で難しすぎて歌えない。
火と水の調理に成功した音楽家。
黒沢健一— 徳山秀典 (@tokuyama0130) December 11, 2016
同曲は、いかにもヒット曲の王道をいくようなキャッチ―な曲調だけに、多くの人は歌いやすいと思いがちなのでしょう。
ですが、自由自在に飛び跳ねているようなメロディがなんとも特徴的。
素人にはハードルの高い楽曲をさらりと歌唱してしまうところもさすがという感じですね。
黒沢健一の実家は日立市、高校は不明
黒沢健一さんは茨城県日立市に生まれ、高校卒業後すぐに上京して作曲家の仕事をはじめました。
秀樹さんが中学2年生くらいの頃、元四人囃子で音楽プロデューサーの岡井大二さんが実家を訪れ、兄の進路について両親と話していたのを覚えているそうです。
日立市は、茨城県北東部に位置する市で、日立製作所創業の地。
ネット上には、黒沢兄弟の実家の最寄り駅は常陸多賀駅という地元の方の書き込みもありますが、確認はとれませんでした。
同駅の近くには、かつて黒沢楽器という楽器店があり、ここが実家だと勘違いしていた地元住民も少なからずいたとのこと。
ということは、地元の方でさえ本当の実家の場所をつかめていなかったことになりますね。
出身高校についても同様で、「小学校が同じだった」「中学の先輩だった」という書き込みはあるものの、具体的な学校名は挙げられていません。
天才アーティストがどんな家庭で育ったのか、両親の職業も気になるところですが、父親は国語の教師だったという情報がありました。
情報源は、ラジオ番組か雑誌のインタビュー記事でそう言っていた記憶があるというファンの声。
とかくメロディメイカーとして注目されがちな黒沢健一さんですが、心にストンと入ってくる作詞のセンスは、もしかしたら父親譲りだったのかもしれません。
黒沢健一の死因は脳腫瘍
黒沢健一さんが脳腫瘍の治療に専念していることを公表したのは、2016年10月3日でした。
しかしその1年前には、すでに脳腫瘍と診断されていたのです。
2015年10月のライブのリハーサル中に黒沢さんはめまいを覚え、検査をすることに。
その結果、脳腫瘍が判明し、以降は入退院を繰り返していました。
病気のことはぎりぎりまで公表を控えていた、と秀樹さん。
【訃報】「元L⇔R」の黒沢健一さんが死去https://t.co/4WUJ7zqFoD
5日午前3時52分に亡くなったことが公式サイトで発表された。10月に、脳腫瘍で療養中であることを公表していた。 pic.twitter.com/7sZsNGH3x4
— ライブドアニュース (@livedoornews) December 7, 2016
秀樹さんの話によると、健一さんは脳腫瘍の前にも一度、大病を患ったことがあったそう。
それまでは、L⇔Rの再始動について水を向けても煮え切らない返事しか返さなかった健一さんが、その時は「二人と一緒にやりたいから、前向きに考えるよ」と答えたといいます。
止まったままの歯車がようやく動き出そうとした矢先の脳腫瘍の発覚でした。
息をひきとったのは、病気公表からわずか2か月後の12月5日。
この年は、L⇔Rのデビュー25周年にあたる年でした。
神様は残酷です。
90年代を駆け抜けた人気バンド・L⇔Rと、そのボーカルでメインコンポーザーでもあった黒沢健一さん。
L⇔Rがオリジナルメンバーで復活するチャンスが永遠に失われてしまったことが残念でなりません。
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