伊藤野枝は美人&激しい名言。最期&死因は甘粕事件での虐殺。平塚らいてうの青鞜に参加

大正時代の女性解放運動家で、2023年には没後100年を迎える伊藤野枝(いとう のえ)。

自由を求めて熱い生涯を送った女性として知られています。

インターネット上では野枝が美人だったという噂が流れていますが、本当なのでしょうか。

今回は野枝の顔写真と名言をチェックし、最期と死因について甘粕事件の詳細から解説します。

併せて、婦人活動家の先輩である平塚らいてうが発行していた雑誌「青鞜」での活躍を紹介します。

伊藤野枝のプロフィール

本名:伊藤ノヱ

生年月日:1895年1月21日

死没:1923年9月16日

身長:不明

出身地:福岡県糸島郡今宿村(現在の福岡市西区今宿)

最終学歴:上野高等女学校(上野学園中学校・高等学校の前身)

伊藤野枝は美人

野枝の顔写真は多く残っており、どのような雰囲気の女性だったのか確認することができます。

失礼な言い方ですが、丸顔かつ細長い瞳の女性で、万人受けする美人ではないのではないでしょうか。

一般的には西洋人のように彫りが深く、瞳が大きい女性が美人とされています。


そのため野枝が美人に見えるかどうか、人それぞれ感想が異なりそうです。

ただし1枚、非常にかわいらしい野枝の顔写真を見つけられました。

影がかかっている影響か、顔にハッキリとした陰影が付いており、彫りが深く見えますね。

瞳も最初に見た写真よりも大きく、西洋人風の美人と言えるのではないでしょうか。

写真によって印象が異なるということは、直接会ってみるとまた違った雰囲気を漂わせていた可能性があります。

もしかすると後世の私たちが思うよりも、大きな瞳を持つ美人だったのかもしれませんね。

ちなみにパートナーとして同棲し、ともに活動していた無政府主義者の大杉栄は、大きな瞳が印象的な西洋人風の風貌でした。

この2人の血を継いだ長女の魔子(両親の死後、眞子と改名)さんは、大きな瞳が特徴的な美人です。

両親の濃いDNAを受け継いだことがうかがえますね。

伊藤野枝の激しい名言

野枝は婦人解放運動に生涯を捧げ、文筆活動を通じて、熱く激しい明言を残しています。

パートナーの大杉が警視庁に拘束されたとき、内務大臣の後藤新平へ抗議の手紙を書き送りました。

この手紙の中に、野枝の言葉の中でも特に有名な一節があります。

「一国の為政者でも私よりは弱い」

為政者・後藤に対して、大胆な言葉で一女性の強さを訴えたのです。

また『婦人労働者の現在』という文章では、家庭のために尽くすしかなかった当時の女性たちを「奴隷」と表現。

そのうえで奴隷としての心身を解放し、「家にも雇い主にも従うことはない」と続けました。

家に縛られる女性たちに対して「死力を尽くし、直接行動を」と訴えたのです。

権力者にも頭を下げず、「非国民」と呼ばれても、自由を求めて大杉とともに生き抜いた野枝。

2人は「国家の害悪」として常に警察から尾行されることになります。

そして関東大震災から15日後の1923年9月16日、震災の混乱に乗じて2人は憲兵に連行され、殺害されたのです。

伊藤野枝の最期・死因は甘粕事件での虐殺

1923年9月16日。

39歳の大杉と28歳の内縁の妻・野枝は、大杉の6歳の甥・橘宗一とともに東京の焼け跡を見に行くことにしました。

その後、3人は東京にある麹町の憲兵司令部へ連行されたのです。

遺体はほぼ全裸の状態で畳表に巻かれ、古井戸に投げ込まれました。

3人が殺された理由は、関東大震災の混乱に乗じ、朝鮮人たちを扇動して騒動を起こすというデマが流れたことでした。

事件の主犯者・甘粕正彦憲兵大尉は、このデマを利用し、「危険人物を排除する」という正当な目的の下で殺害を決行。

しかしわずか6歳の大杉の甥・宗一までもが殺害された結果、多くの人が事件を批判したのです。

しかも殺害方法は非常に残虐だったとされています。

当初は絞殺とされていましたが、死因鑑定書の資料によると、大杉と野枝の肋骨は何本も折られていました。


かなりの暴行を加えられた末に、古井戸に投げ込まれ、レンガや馬糞の塊とともに埋められたのです。

混とんとした時代の中、自由な表現者としての権利を手放さなかった野枝は、暴力によってねじ伏せられてしまいました。

伊藤野枝は平塚らいてうの青鞜で編集長に就任

悲劇的な最期を迎えた野枝ですが、おそらく本人は自身の生き方に満足していたのではないでしょうか。

婦人解放運動家の第一人者だった平塚らいてうに頼み込み、彼女が主宰する雑誌「青踏」に参加させてもらいます。

数々の原稿を執筆し、20歳でらいてうから編集長の座を引き継ぎました。

らいてうから厚い信頼を寄せられていたことがうかがえますね。

野枝は子供を連れて勤務し、赤ん坊が泣く傍らで原稿を書いていたそうです。

育児の方法は破天荒で、赤ん坊のおしめは職場で干して再び使い、おしめの中のうんちは職場の庭に捨てていたといいます。


事務員が庭の掃除に追われてもお構いなしだったそうですよ。

100年以上も昔、奥ゆかしさとは無縁だった野枝の破天荒な生き方には、思わず目を見張ってしまいますね。

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