森田童子の死因と晩年の生活。自宅は国分寺の二階建て。志村けんがライブで涙

森田童子(もりたどうじ)さんは1975年「さよなら ぼくの ともだち」でデビューし、1985年に音楽活動を休止した伝説のフォークシンガー。

1976年に発売されたシングル「ぼくたちの失敗」が時を超え、1993年のドラマ「高校教師」の主題歌として起用されると、100万枚を超える大ヒットを記録しました。

非常に寡黙で自分のことについて語った記録もなく、特徴的なカーリーヘアが地毛だったかウィッグだったのかすらも明らかになっていません。

そんな森田童子さんは2018年に65歳で亡くなられています。

今回は、謎多きフォークシンガー・森田童子さんの死因や晩年の生活についてお伝えします。

森田童子のプロフィール

本名:前田美乃生

生年月日:1952年(昭和27年)1月15日

没年月日:2018年(平成30年)4月24日

出身地:東京都

2018年に亡くなった森田童子の死因と晩年の生活

森田童子さんは2018年4月24日未明に、自宅で亡くなりました。

初めは死因が不明と報道されたため、「持病があった」や「ガンだった」など、出所のわからない情報が飛び交いました。

「ぼくたちの失敗」が大ヒットした時にはすでに引退していて、「森田童子は謎が多い」というパブリックイメージだった事が、余計に憶測などを助長させたのではと思われます。


その後、死因は心不全だと明らかになりました。

森田童子の夫と、晩年の生活

森田童子さんは2010年頃から病気を患っており、同時期に近しい人物を亡くしていた心労で、辛い闘病生活を送っていたようです。

公にはされていませんが、2010年に亡くした近しい人物とは、夫の前田亜土さんだったそうです。

前田亜土さんはイラストレーターをしていたそうですが、森田童子さんのマネージャーとしても活動していたそうです。

元々、森田童子さんの父親と知り合いだった事で出会い、森田さんよりも15歳年上だったと言われています。

森田童子さんが歌手を引退すると、前田亜土さんは森田童子さんの親族が設立した芸能事務所「アド・プロモーション」の社長に就いたそうです。

2010年の前田亜土さんの死後、森田童子さんは精神的に不安定になっていった、とも言われています。

すぐには報じられなかった訃報

森田童子さんの訃報はすぐには報じられませんでした。

葬儀・告別式は親族のみで行われ、お別れ会なども行われませんでした。


死去から2ヶ月後に遺族からJASRACに連絡があり、6月に発行されたJASRAC会報誌に訃報が掲載され、死去していたことが明らかになりました。

森田童子さんの関係者は「死去を公にするつもりはなかった」と言っていました。

その原因としては、森田童子さんが孤独死をしたからではないか、と考えられています。

晩年は一人暮らしをしていたため、孤独死を迎え、変死体として発見された、と言われています。

自宅は国分寺の小さな2階建て住宅

ファンには森田童子さんが最後に過ごしていた自宅の場所も判明しているそうです。

訪れたファンの話によると、国分寺の2階建ての小さな木造住宅だったそうです。

この自宅の住所は、森田童子さんの楽曲を管理している「海底劇場音楽出版」という会社の住所として登録されていたそうです。

森田童子さんが孤独死による変死体で発見されたため、自宅が事故物件として登録されている、という情報もありました。


2022年現在では家は取り壊され、もうなくなっているようです。

自宅近くにあったカフェRoofには夫の前田亜土さんとよく訪れていたようで、同カフェのTwitterで前田亜土さんの生前の写真が見る事ができます。

志村けんは森田童子のファンだった

2020年に新型コロナ感染により死去したコメディアン・志村けんさんは森田童子さんのファンでした。

森田童子さんのファンの方が、志村けんさんが何度もライブに来られている姿を見かけています。

志村けんさんはいつもライブハウスで女性を連れてお酒を飲んでいたそうですが、森田童子さんが登場すると笑顔が消え、表情が一変していたそうです。


森田さんがライブの最後に歌う「さよならぼくの友だち」では、涙を流していたと目撃されています。

コメディアンとして世間に見せる顔とは違って、1人の人間として森田童子さんの作品に共感する所があったのかもしれません。

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