三波春夫の息子と娘、妻について。ライバルは村田英雄。永六輔・サザンとのエピソードとは

ほがらかな笑顔と浪曲で鍛えた美声、そして「お客様は神様です」の名フレーズで国民に親しまれた三波春夫(みなみはるお)さん。

この記事では三波春夫さんを支えた息子、娘、妻ら家族にスポットをあてながら、ライバルとされた村田英雄さん、親交の深かった永六輔さん、伝説として語り継がれるサザンの紅白エピソードをまとめます。

三波春夫のプロフィール

本名:南篠文若、北村桃児

生年月日:1923年7月19日

没年月日:2001年4月14日(77歳没)

出身地:新潟県三島郡塚山村

三波春夫の息子(三波豊和)、娘、妻について

戦後の日本歌謡を代表する歌手であり、高度成長期に聴衆を歌で鼓舞し続けた三波春夫さん。

三波春夫先生と呼んだほうがいいかもしれませんね。


本名を北詰文司さんといい、1923年7月19日に新潟県長岡市で生まれました。

復興の象徴だった二つの国際的祭典のテーマ曲『東京五輪音頭』と『世界の国からこんにちは』はあまりに有名。

ですが、じつは二作品ともレコード会社8社の競作であり、テイチクの三波盤が圧倒的に支持された結果でした。

また一般的に歌手として認知されていますが、もともとは「南篠文若(なんじょうふみわか)」という浪曲師。

シベリア抑留時代は収容所で浪曲を披露して捕虜を元気づけました。

仲間たちは、「聴いていると、まるで日本にいるみたいだ」と涙を流したそうです。

「三波春夫」として歌手デビューしたのは33歳の時。

『チャンチキおけさ』『大利根無情』といったヒット曲はもとより、浪曲と歌をミックスさせて自作した長編歌謡浪曲『俵星玄蕃』など、誰にも真似できないエンターテインメントを世に送り出しました。

三波春夫さんの歌は言葉の明瞭さが強く印象に残りますが、これはやはり浪曲という語り芸で鍛えられたものなのでしょうか。

息子はタレントの三波豊和さん。

1955年8月10日生まれで、本名を北詰豊和さんといいます。

6歳で子役としてドラマデビューし、10歳で『三波春夫特別公演』にて初舞台。

『青春よ翔べ』で1976年に歌手デビューしますが、のちにタレント・俳優業に軸足をおくように。

主な出演作にドラマ『かりん 』『水戸黄門』、舞台『レ・ミゼラブル 』などがあります。

1958年生まれの娘・八島美夕紀さんも「三波美夕紀」の芸名で芸能活動をしていた時期がありました。

デビューは19歳で出演した父の公演。

最後の11年間のマネージャーを務めたのは美夕紀さんで、2023年現在は三波クリエイツ代表です。

引き揚げ後に結婚した野村ゆきさんは三味線漫才師でした。

浪曲の曲師として夫を支えただけでなく、「歌手・三波春夫」のプロデューサーとしても活躍。

男性歌手の衣装はスーツかタキシードが定番だった当時、和服を着ることを提案し、男性着物歌手第一号を誕生させたのもゆきさんでした。

村田英雄とはよきライバル&永六輔も感動

村田英雄さんはデビューが1年遅れで、同じ浪曲師出身でした。

二人はライバルと位置づけられ、犬猿の仲とささやかれたことも。

しかし実際は刺激を受け合い、競い合うよい関係だったようです。

三波さんの訃報を受けた村田さんは憔悴しきった表情で、「これで残ってるのは俺だけになったか」とコメント。

糖尿病による右膝下の切断手術のあとには励ましの電話をもらったことを明かしました。

村田英雄、たけしにイジられキレた?三波春夫と不仲?息子・家族と足切断について

永六輔さんに作詞を依頼して制作された『明日咲くつぼみに』は1997年の作品。

歌詞に「時は還らず 世は移りゆく いつか別れの言葉 さようなら」というフレーズがあります。

のちに永六輔さんは、がんと闘っていることを知っていたらこんな歌詞は書かなかったと悔やんだといいます。

もうひとつ、永六輔さんが「三波さん、あなたが神様です」と言わずにいられなかったエピソードがあります。

それは二人で老人ホームを慰問した時のこと。

いつも歌を歌っている歌好きのおばあちゃんがいると聞かされていた通り、会場に入ると、一人のおばあちゃんが童謡を歌っていました。

三波さんは自分のステージを後回しにして彼女に歩み寄り、一緒に童謡を歌います。

すると、歌声はしだいに会場全体に広がっていったそうです。

この日、三波さんは自分の歌を1曲も歌いませんでした。


みんなそれぞれに好きな歌があることに気づいた三波さんは、これまで自分の歌を聴かせてあげようと思っていたのは傲慢だったと話したそうです。

永六輔さんは大御所のこの言葉にとても心を打たれたということです。

サザンが三波春夫パフォーマンスで大ブーイング

日本人歌手にとっての晴れの舞台、紅白歌合戦。

大晦日の一コマであり、風物詩的なマンネリでもあるのですが、出場者のなかには予定調和をよしとせず、ひと暴れしてやろうとする人も。

1982年、『チャコの海岸物語』で二度目の出場となったサザンは、三波春夫パフォーマンスで大ひんしゅくをかうことになりました。

着物姿に厚塗りメイクで『チャコの海岸物語』を演歌風に熱唱する桑田佳祐さん。

間奏では「神様です」「ありがとうございます」「裏番組はビデオで見ましょう」などと悪ノリ。

ちょうどサザンの前の対戦で歌唱した三波春夫さんは、舞台袖のモニターでこのシーンを見ていたといいます。

このパフォーマンスには視聴者から「ふざけすぎ」とクレームが殺到し、サザンはNHKに詫び状を求められる事態に。

当時、ロック系アーテイストにはアンチ紅白という風潮がありました。

そんな中で真面目に歌唱しようものなら「紅白に媚びを売った」と言われかねません。


出場するからには、何か突飛なことをやってやろうというのがサザン流だったのかもしれませんね。

この人が登場するだけでステージがパッと明るくなるという歌手がいますが、三波春夫さんはその最たる存在でしょう。

家族とわずかな関係者以外にはがん闘病を伏せ、最後まで芸道に邁進した、まさに国民的大スターでした。

三波豊和の現在(2023)。はに丸の評判&息子と娘について。趣味のゴルフで番組出演

コメント