荒川修作が建築した三鷹住宅と養老天命反転地。宮崎駿も絶賛。死因は?

「天命反転」というテーマのもとに奇抜な作品を世に送り出し、現代美術界に一石を投じた美術家の荒川修作(あらかわしゅうさく)さん。

代表作の養老天命反転地や、死に抗う建築で有名な三鷹天命反転住宅についてみていきます。

2010年に73歳でこの世を去りましたが、死因は何だったのでしょうか。

また、荒川修作さんの思想や作品に感銘を受けたという宮崎駿監督についてもお送りします。

荒川修作が建築した三鷹天命反転住宅

若い頃から既成の美術観を覆す作品を発表し、海外でも高い評価を受けた現代美術家の荒川修作さん。

ミュンヘンオリンピックのポスターをデザインした人として記憶している世代もいるのではないでしょうか。


後年にライフワークとして取り組んだのは「天命反転」というテーマでした。

ひと言でいうと、人間にとって避けられない死という天命を反転させ、死の宿命から逃れようという考え方です。

死を定義するのではなく、どうすれば死ななくなるのかを考え続けたところが面白いですね。

快適な生活は人間の健康に悪影響を及ぼすという持論をもとに、荒川さんは「死なないための建築」に着手します。

東京都三鷹市大沢にある三鷹天命反転住宅は、荒川修作さんの持論を実践する場として制作された作品のひとつ。

2005年に建造、販売された全9戸の集合住宅で、カラフルな内外装、立方体や球体の部屋、でこぼこの床など、遊具のような仕掛けが施されています。

普通の感覚からすれば異様であり、住居としては使い勝手が悪そうですが、こうした不安定な状態で生活することで、忘れてしまった身体感覚を呼び覚ますことが狙いなのだそう。

「 In Memory of Helen Keller」と ヘレン・ケラーに献辞が捧げられているのは、彼女が人間の身体感覚の可能性を証明した人物だから。

身体に優しいバリアフリーなどの便利で快適な生活と引き換えに、人間は失ったものもあるはずだと考えた荒川修作さん。

風変わりな建築は、その失ったものを取り返そうとする試みでした。

三鷹天命反転住宅には実際に入居している方もいて、見学会も実施されています。

テーマパーク・養老天命反転地は体験型の芸術作品

荒川修作さんは住宅のほかにテーマパークも手がけました。

岐阜県にある養老天命反転地は体験型のアート作品。

ここでも日常生活では経験することのない錯覚や不安定な感覚を味わうことができます。

もはや美術館におさまりきらない芸術作品ですね。

起伏の激しい丘や迷路、でこぼこの地面、上下左右が反転した屋内など、予想もつかない不思議と出会えることから、若いカップルにも家族連れにも人気の高いスポットなのだそう。

子供はもちろん、大人にとっても子供心を思い出させてくれる場所といえそうです。

とはいえ、好奇心と冒険心を満たしてくれる場所であるだけに危険が存在するのも事実。

養老天命反転地は1995年に開園しましたが、ふだんの生活では立ち入り禁止にされるような特殊な構造から、入園者に怪我人が相次いだとのこと。

荒川さんは「意外と少ないな」と平然としていたそうです。

荒川修作の死因

荒川修作さんは1936年7月6日、愛知県名古屋市に誕生。

1961年に渡米し、以降はニューヨークに在住していました。


没日が2010年5月18日と5月19日の二つの情報がありますが、ニューヨーク市内の病院で亡くなったことから、現地時間と日本時間で情報が分かれているのでしょう。

73歳で生涯をとじたことになりますが、死因をはじめ、何かの病気を患っていたという情報は一切ありません。

「死なないこと」をテーマに掲げ、「天命反転」を提唱した芸術家が、実際には反転しない天命のためにこの世を去ったことは皮肉なようにも思えます。

渡米後に出会い、公私ともにパートナーとなった美術家で詩人のマドリン・ギンズさんは4年後の1月8日、肝臓がんのため72歳で死去しました。

宮崎駿がテーマパークの構想を荒川修作に相談

今の子供たちは子供時代を奪われていると折に触れて発言してきた宮崎駿監督。

子供時代は野山を駆けまわり、冒険をし、時には怪我をしたりする遊びが必要なのに、今の社会は彼らを危険から遠ざけるようになりました。

これは子供たちの生活から危険が消え、身体や五感が受ける刺激がなくなったことを意味します。

養老天命反転地に出会い、その常識にとらわれない空間に感銘を受けた宮崎監督は、宮沢賢治さんの思い描いたイーハトーブの街を再現できないかと荒川さんに相談したことがありました。

はじめてその街に来た人が懐かしさのあまりに涙してしまうような、また心が解放されるような街をつくれないだろうか、という話をしたそうです。

すると荒川さんは、確かにそれはすばらしいが、一方で絶望もつくりだすことになるだろうと返答。

というのは、その街がすばらしければすばらしいほど、現実の生活に戻った時のギャップに落ち込まざるを得ないからです。

宮崎監督は納得し、この時の構想は実現しませんでした。

しかし、この思いは三鷹の森ジブリ美術館という形で実を結ぶことになります。


通常の芸術家の枠組みではとらえきることができないほど斬新な試みが話題を呼んだ荒川修作さん。

世の芸術家は、その人なりの興味や関心、問題意識を持っていると思いますが、荒川修作さんにとっては「人はいつか死ぬ」という常識に挑むことがまさにそれだったのですね。

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