前衛芸術家で芥川作家の赤瀬川原平(あかせがわ げんぺい)さん。
千円札を拡大模写した作品など、アヴァンギャルドな芸術作品を発表したことで知られています。
また漫画雑誌『ガロ』で漫画家として連載を持つなど、活動範囲は多岐にわたりました。
2014年に77歳で亡くなりましたが、町田の自宅でニラハウスと呼ばれた家はどうなっているのでしょうか。
家族、結婚、娘の情報についてもあわせて見ていきます。
赤瀬川原平のプロフィール
本名:赤瀬川克彦
生年月日:1937年3月27日
身長:不明
出身地:大分県大分市
最終学歴:武蔵野美術学校油絵科(現在の武蔵野美術大学)
赤瀬川原平の自宅・ニラハウスとは
玉川学園にある赤瀬川さんの自宅は、通称ニラハウスとして知られていました。
建築家・藤森照信さんの設計で、1997年に竣工。
片側が非常に長く設計された切妻屋根の上に、無数のニラが鉢植えごと置かれているのが特徴。
つぶやき遅くなりましたが、デポ開店しています。
先日入荷した建築関係を袋詰め。ついつい見てしまい作業が捗りません〜。赤瀬川原平邸のニラハウス発見! pic.twitter.com/3ljUOP63KP— 古本や檸檬 (@bq_lemon) November 6, 2020
屋根の斜面だけではなく、てっぺんにもニラが生えている様子はシュールで、家そのものが前衛芸術と呼べるかもしれません。
秋にはニラの白い花が屋根の上に咲き誇る様子が、名物として親しまれていたようです。
2014年に赤瀬川さんが亡くなってからは、どうなったのでしょうか。
実は2010年時点で、ニラポットを撤去し、金属瓦へ葺き替えの工事が行われていたようです。
赤瀬川原平邸、ニラハウス撤回で、金属瓦に葺き替え工事中。 http://plixi.com/p/64938496
— Itiro SIIO (@siio) December 24, 2010
高齢になった赤瀬川さんに、数百にも上るニラポットの世話は難しかったのでしょう。
完全に銅板葺きへ変わっています。
家自体も空き家のようで、取り壊されてしまう可能性もあるかもしれません。
ニラハウスに戻すことは困難でも、何とか地域コミュニティの場などで使われ続けてほしいですね。
赤瀬川原平の家族情報
赤瀬川さんの家族について、知っている人はあまり多くないかもしれません。
父親は倉庫会社のサラリーマンで、母親は主婦だったようなので、ごく一般的な家庭に育ったと言えるでしょう。
赤瀬川さんは6人兄弟の下から2番目。
幼いころから絵が好きでしたが、他の兄弟も芸術に関心があったそうです。
終戦後、父親が失職し、家族みんなで内職をしていたので苦労が多かったことがうかがえます。
そんな中でも、美術の道を志し、姓名判断を参考に原平というペンネームを考えました。
兄弟については、兄・赤瀬川隼(あかせがわ じゅん、※本名:赤瀬川隼彦)さんは直木賞作家。
姉・赤瀬川晴子さんは帽子作家で、詩と帽子に関する書籍『POESIE 帽子が棲む風景』の著者でもあります。
Poesie―帽子が棲む風景 赤瀬川 晴子 (著) 講談社 https://t.co/hTVpGS4cN2 赤瀬川原平さんのお姉さんのドイツ語訳つき詩と帽子の写真集。 pic.twitter.com/S0cHlco13z
— 二語商店 (@25LABO) February 22, 2016
一見、普通の家庭であるにもかかわらず、苦労の中で感性を磨いて芸術家となった人が多数いる家系ということですね。
赤瀬川原平の結婚と裁判
赤瀬川さんは結婚した時、裁判の真っただ中でした。
1963年、千円札をおもて側だけ一色で印刷し、加工したうえで芸術作品として発表します。
さらに千円札をルーペで観察し、拡大模写した作品「復讐の形態学」(※殺人前に相手を観察すること)を発表しました。
しかし作品が掲載された雑誌『赤い風船あるいは牝狼の夜』が、わい雑として訴えられる事態が生じます。
そこで警察が千円札の作品を目にとめ、赤瀬川さんは偽札事件の容疑者として裁判にかけられることになったのです。
結婚したのは、裁判中の1965~1967年の期間内ということになりますね。
娘をもうけますが、裁判後の1978年に離婚し、その後は父子家庭となりました。
裁判以降、前衛芸術に懲りたのか、「尾辻克彦」名義で作家活動に集中するようになった赤瀬川さん。
『父が消えた』で芥川賞を受賞してからは、周囲からの評判も好意的になっていきました。
一人娘との父子家庭の様子を描いた作品が多いため、ホモという噂までありましたが、講師を務めていた美学校の生徒と再婚しています。
赤瀬川さんが亡くなった際、葬儀で喪主を務めた妻・尚子さんがその再婚相手である可能性が高いでしょう。
赤瀬川原平の娘は?
気になるのが、作品にもたびたび登場する一人娘の存在ですね。
現在どうしているのかなど詳細はわかりませんが、『肌ざわり』などの私小説に、胡桃子ちゃんという娘が登場しますので本名もこの通りである可能性が高いでしょう。
どうしようもない父を冷静に受け止める胡桃子ちゃんの存在を通して、赤瀬川さんは自分を客観視しようと努めていたのかもしれません。
今回は赤瀬川原平さんの、前衛芸術家らしい波乱万丈の前半生から、作家となり自省を始めた後半生を見てきました。
作家として冷静に執筆をしていく上では、再婚した妻と娘という存在が大きかったのでしょう。
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コメント
ケーハクもほどほどにせよ。無礼者。豚に食われろ。