『檸檬』、『城のある町にて』で知られる文豪・梶井基次郎(かじい もとじろう)。
前者は若者が自身の不安な気持ちを、檸檬の明るい色彩で解消しようとする、有名な作品ですね。
今回は梶井の生涯と死因、有名なエピソードを詳しく見てみましょう。
さらに経歴と家族情報も併せてご紹介します。
梶井基次郎のプロフィール
本名:梶井基次郎
生年月日:1901年2月17日
死没:1932年3月24日
身長:約160cm
出身地:大阪府大阪市
最終学歴:東京帝国大学文学部英文科中退(現在の東京大学)
梶井基次郎の生涯と死因
まずは梶井の生涯と死因について見てみます。
貿易会社勤務の梶井宗太郎、保育園の保母だったヒサの間に、次男として生まれた基次郎。
教養のある母の教育で、幼い頃から文学や音楽に親しんでいました。
8歳になる年、父が左遷されたのに伴い上京し、現在の港区で貧乏暮らしを始めます。
さらに三重県に再び転居、その後大阪に戻るなど転居をくり返しましたが、基次郎はそれぞれの土地になじみ勉学でも優秀でした。
第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部)に入学すると、文学やオペラなど芸術の鑑賞に熱中。
とくに受験生時代から読みふけっていた夏目漱石に憧れ、小説家を目指し始めています。
しかし肋膜炎の発症と演劇活動などへの没入のせいもあって、落第続きでした。
何とか卒業してからは、東京帝国大学の英文科に入学。
同人誌『青空』を創刊し、デビュー作『檸檬』を発表しますが、当時はほとんど反響がなく落胆したそうです。
創作に取り組み、放蕩生活を送っていた基次郎ですが、1928年に肺病を患い帰郷しています。
小林秀雄から『檸檬』が評価されるなど、文壇での地位が認められたのは死の直前。
死の床で書いた『のんきな患者』は、病床をユーモラスに観察する基次郎の達観した様子を感じさせる点で、若者の不安を描いた『檸檬』とは対照的です。
20編程度の作品しか残していませんが、ようやく文壇で認められた矢先、結核により32歳で亡くなりました。
若くして巧みな心理を描く技量がありましたから、本物の文豪だったと言えるでしょう。
梶井基次郎の有名エピソード
基次郎の人柄をうかがわせる、有名エピソードを見てみましょう。
放蕩癖のあった父に似ていたのか、基次郎は酒癖が悪く、よく暴れまわっていました。
友人の中谷孝雄によると、男3人で飲んだ後、遊郭に行きたがった基次郎が石段の下で大の字に寝ころんで怒鳴り散らしたそうです。
仕方がないのでそのまま遊郭に連れて行ったとのことでした。
そんな酒癖の悪い基次郎ですが、一方でオペラ鑑賞という瀟洒な趣味も持っていました。
また、楽譜が読めたこともあり、梶井基次郎先生はバイオリンが弾けたそう。そして、よく仲間内でクラッシックレコードをかけてみんなで楽譜片手にベートーヴェンの第九、『カルメン』や『ファウスト』などのオペラを歌っていたんだって。
また面白い話だとミンミンゼミの泣き真似が上手かったそう。— †┏┛旧支配者のくとぅるふくん┗┓† (@Kutuluu_iaia) October 2, 2017
絶対音感とも言える程の鋭い聴覚を持っていたそうで、演奏会では常に譜面を携え、的確なタイミングで拍手をしています。
基次郎の拍手のタイミングで、周りの観客も曲が終わったことに気づいて拍手をしていたそうです。
自分の趣味には徹底的に没入していたことがうかがえますね。
梶井基次郎の経歴と家族
基次郎の経歴と家族情報をまとめていきましょう。
基次郎は大阪に生まれ、父の転勤と共に転居をくり返します。
学生時代に文学、芸術活動にのめりこみ、同人誌で小説を掲載。
この間も贅沢な食べ物を好んでいましたが、食事代は両親が出していたそうです。
しかし父の死からはそれを反省し、マルクスの『資本論』を読み始めるなど、贅沢を控えるようになりました。
この時期から肺を患い始め、最後は母に看病されています。
父の宗太郎は度重なる左遷のせいもあってか酒浸りで、59歳のときに心臓まひで亡くなっています。
退職金を使い切ってしまったショックも大きかったようで、基次郎は自分の贅沢のためのお金を使わせていたことを大いに後悔したでしょう。
兄弟については、姉、兄、弟が5人いる他、異母弟、異母妹、甥も複数いました。
兄の謙一とは幼少期から一緒に通学するなど仲が良かったようです。
謙一も優秀で、大阪高等工業学校電気科(現在の大阪大学工学部)を卒業後、エンジニアになっていました。
基次郎は一時期、謙一のようなエンジニアに憧れていたそうです。
謙一はのちに日本アマチュア無線連盟の理事を務め、86歳で亡くなっています。
弟の勇は兄から無線についての指導を受け、ラジオ店を開業しましたので、理系の多い家庭だったことがわかりますね。
基次郎が文学に目覚めなければ、エンジニアになって、もう少し健康にも気を遣い長生きできていたのでしょうか。
いずれにせよ、梶井家にとって彼は異端児だったのかもしれません。
『檸檬』の静謐な文体からは想像できぬほど、熱く激しい人生を送っていたと言えるでしょう。
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