志賀直哉のエピソード、山手線事故の経緯まとめ。生い立ちと生家。子孫の現在

『暗夜行路』などで知られ、短編小説の神様と呼ばれる文豪・志賀直哉(しが なおや)。

晩年の好々爺の姿が印象的ですが、どのような生涯を送ったのでしょうか。

今回は志賀の有名エピソードの中から山手線事故についてご紹介しつつ、生い立ちと生家、子孫の情報も見ていきましょう。

志賀直哉のプロフィール

本名:志賀直哉

生年月日:1883年2月20日

死没:1971年10月21日

身長:170cm前後

出身地:宮城県、東京都

最終学歴:東京帝国大学国文科中退(現在の東京大学)

志賀直哉の有名エピソード。山手線事故について

まずは志賀のエピソードから、山手線事故についてご紹介していきます。

この出来事は1913年(大正2年)8月15日に起こりました。


同じ白樺派の代表的作家である里見弴と共に、東京芝浦海岸で催された納涼祭の素人相撲を見た帰り道だったそうです。

何があったかについて正確な情報はないのですが、どうやら里見と口論になったようでした。

この後、志賀は山手線にはねられ重傷を負い、東京慈恵会医科大学附属病院に入院しています。

この療養のため兵庫県の城崎温泉に滞在した経験が、代表作『城の崎にて』につづられることになりました。

志賀が列車にはねられた際の様子は不可解な点が多いですが、里見との口論の末、自ら突進してくる列車の前に飛び込んだようです。

それにしても列車に飛び込むほどの衝動を起こさせた口論の内容も気になりますし、列車にはねられても生き延びた彼の生命力には驚きですね。

学習院中等科時代はボート部に所属し、筋肉をつけていましたから、頑丈な身体だったのでしょう。

現代では、人気漫画『鬼滅の刃』の時代設定が、志賀の山手線事故と同じであることが話題になっています。

鬼滅の主人公が戦っている間に、志賀は山手線にはねられたと考えると、大正時代がやや身近に感じられるかもしれません。

すっかり面白エピソードとして扱われている様子の山手線事故。

志賀がここで死亡していたら、ここまでユーモラスに語り継がれることはなかったでしょう。

志賀直哉の生い立ちと生家

次に志賀の生い立ちと生家について見てみましょう。

志賀は宮城県石巻市に銀行員の志賀直温(しが なおはる)とその妻の銀の次男に生まれました。

2歳のときには、父が銀行を辞したことで東京へ引っ越していますので、宮城県での思い出はないことになります。

東京では祖父母に溺愛されながら育ちました。

兄の直行が幼くして亡くなっており、その責任が銀にあると考えた祖父母は、自らの手で次男を育てようと考えたのです。

志賀が学習院初等科を卒業した年に銀が亡くなり、直温は漢学者の娘である浩と再婚。

『母の死と新しい母』の中で、志賀はこのときの様子をつづり、実母の死が取り返しのつかない事態だったと述べています。


母の喪失は、幼い志賀の心に影を残したと言えるでしょう。

宮城県の住吉町1丁目8番25号にあった生家は、東日本大震災より以前に解体されて今は跡地になっています。

文豪をモチーフにした人気ゲーム「文豪アルケミスト」のファンなどが、跡地を訪れ続けている様子なので、観光地としては知られているのでしょう。

志賀直哉の子孫の現在

では志賀の子孫はいるのでしょうか。

1914年(大正3年)に由小路康子と結婚した志賀。

夫婦は二男六女をもうけ、長女の慧子(さとこ)と長男の直康が夭折しています。

それ以外の子供たちは成人しており、次男の直吉は岩波書店に就職、四女の万亀子は美術史家の柳宗玄と結婚しました。

子供たちはそれぞれ子をもうけており、志賀の孫としてよくメディアに登場する志賀道哉さんは2021年現在もご存命のようです。


志賀家は今後も末永く続いていきそうですね。

作品からだけではうかがえない、強靭な生命力のある作家だったことがわかりましたね。

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