丸々とした巨体に、ロイド眼鏡の風貌で人気を博した喜劇役者の古川ロッパ(ふるかわ ろっぱ)。
堂々とした貫禄ある芸風は、軽妙さが売りのエノケンこと榎本健一と対比され、並び称されました。
今回はロッパの晩年、死因は結核という情報に迫ります。
また息子、相方についても見ていきましょう。
古川ロッパのプロフィール
本名:古川郁郎
生年月日:1903年8月13日
死没:1961年1月16日
身長:168cm
出身地:東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)
最終学歴:早稲田大学英文科中退
古川ロッパの晩年
戦前、喜劇王として絶大な人気を誇ったロッパ。
しかし晩年は自身の日記からうかがえますが、かなり悲惨なものでした。
戦前、人気コメディアンとして大活躍したものの、終戦後は劇場がなくなり仕事も激減。
しかし生活のため、必死に役者として舞台に立ち続けます。
1950年代の後半には、舞台や映画で脇役ばかり回されるようになりました。
【浅草の偉大な芸人 古川ロッパを知っていますか?】
浅草で一時代を築き、浅草六区芸人看板の一人にもなっている喜劇王です。56年前の今日亡くなっています。今の浅草に影響を与えたスターをぜひこの機会に少しでも知ってください。https://t.co/vNt0ceXlPA pic.twitter.com/lz2XeEYsmB— 浅草スマートニュース (@asakusa_love) January 16, 2017
年齢と共に体力も衰え、後輩である森繁久彌さんからは引退をすすめられてしまいます。
もはや戦前に人気を博した喜劇王の時代は、終わっていたのです。
そして1960年12月、梅田の舞台で倒れると、翌年57歳の若さで亡くなっています。
日記魔だったロッパは、晩年の悲惨な境遇も、常に記録し続けていました。
市内の図書館で廃棄本が貰えるので行ってみたら、なんと『古川ロッパ昭和日記』が! pic.twitter.com/mHNfP1t1m7
— 恐怖!ネコ。 (@turuya4) June 1, 2019
『古川ロッパ昭和日記』晩年篇おぼえがき。昭和34年7月14日日劇に八波むとしを訪ねたロッパは楽屋口で重山規子に会い「やせたわ先生、肥ってくださいよ」と声をかけられた。ロッパ日記に日劇ダンシングチームのスター重山規子が登場するのはこの一箇所だけだが贔屓女優の記述があるのはうれしい。
— スローボート (@nmh470530) September 22, 2013
さまざまな病気を患い、借金を抱え、必死に働き続けた晩年。
それでも日記のペースは衰えず、つらい時ほど筆の勢いが増しているようでした。
コメディアンになる前は、雑誌の編集に携わっていたロッパ。
文筆力が高かったことがうかがえますが、何より書くことが好きだったのでしょう。
日記を書くことで精神を安定させ、つかの間の安らぎを得ていたのかもしれません。
どんなに苦しくても、日記に綴れば冷静に自分の状況を把握でき、心が落ち着いたのかもしれませんね。
死因は結核と全身衰弱
ロッパは晩年、結核に感染し、喀血に苦しみました。
さらに美食家で、天丼や洋食に目がなかったことが災いし、糖尿病にも苦しんだそうです。
病気が悪くなる中、1960年11月、梅田コマ劇場で『お笑い忠臣蔵』の出演中に倒れます。
何とか千秋楽をやり切った上で帰京。
翌年、東京の順天堂病院に入院し、そのまま亡くなりました。
死因は肺炎と全身衰弱だったそうです。
結核が肺炎を引き起こしたとすれば、結核も間接的な死因だったといえそうですね。
さらに体力が落ちる中、必死に働いたため、衰弱しきっていたのでしょう。
巨体がトレードマークだったロッパですが、晩年の写真を観ると痩せていることがわかります。
#ある日のスナップ
左より飯田蝶子さん、古川ロッパさん、吉川満子さん(東宝撮影所にて)/映画ファン 昭和26年2月号よりよい写真♡ pic.twitter.com/TtnaU3BKET
— 島倉千代菊 (@wataridori333) September 26, 2020
死亡記事はかなり小さく、人気絶頂の頃を知るファンにとって、その扱いの軽さは悲しかったことでしょう。
古川ロッパの息子は演出家
ロッパには2人の息子がいました。
長男の古川清さんと、次男の古川ロックさんです。
清さんは1939年に生まれ、2015年に亡くなるまで、演出家として活躍しました。
慶應義塾大学で美学を学び、卒業後は東宝演劇部に就職。
演出部を経てから、帝国劇場のプロデューサーに就任しました。
『シカゴ』や『レ・ミゼラブル』、『ミス・サイゴン』で製作を担当。
菊田一夫の演出助手を経て、演出家になりました。
その後はミュージカル『ピピン』や『屋根の上のヴァイオリン弾き』など多くのミュージカルを担当しています。
2004年には古川オフィスを設立し独立。
2005年には父を題材とした『古川ロッパの世界―食について』を公演しています。
次男のロックさんは、本名を保夫といい、1939年に生まれました。
古川ロック、喜劇スター古川ロッパの次男で兄は演出家の古川清、19歳で俳優になり京都制作の時代劇等に多数出演したが、徐々に出演が減り、関東に拠点を移して日光江戸村などで活動していたが引退、1997年に糖尿病で56歳の若さで亡くなった。 pic.twitter.com/aDnmuWkkjR
— kou209少しでも進むよ (@kou2091) August 15, 2016
父と同じく役者の道を選び、伴淳三郎さんから、「もっと苦労しろ」という意味でつけられた芸名が「緑九」でした。
喜劇や時代ものの映画に出演し、『わんぱく砦』が代表作。
父と同じく巨漢で、一時期は身長170cm、体重86kgだったそうです。
しかし1997年、糖尿病により、奇しくもロッパと同じ57歳で死去。
いかにもロッパの息子らしい、太く短い生涯だったのは残念です。
古川ロッパの相方
ロッパに相方はいたのでしょうか。
コメディアンといえば、やはり相方が存在するイメージがありますが、ロッパは基本的に1人で行動していました。
ただし相方と呼べる人物を挙げるなら、渡辺篤に他なりません。
「マダムと女房」で主演した田中絹代さんと渡辺篤さん。
渡辺篤さんは戦前に佐々木清野さんと数多くの共演歴があり、のちに佐々木清野さんの姪・野沢雅子さんと同じ事務所の所属となる事に不思議なご縁を感じます。英国映画協会が選ぶ、1925~2019年の優れた日本映画95本https://t.co/Gmn9YOIfff pic.twitter.com/XH2rjJ63LJ
— 銀座カンカン息子 (@TwentyFourEyes) May 17, 2020
1898年生まれの俳優で、コーラスボーイを経てから、映画にも出演。
1930年、日本初の本格トーキー作品として公開された『マダムと女房』は代表作です。
戦後は『生きる』や『どですかでん』など、黒澤明の作品に多く出演しています。
そんな渡辺ですが、戦前はロッパと共に東宝の舞台に出演。
『ロッパのおとうちゃん』といった映画でも共演しています。
貫禄あるロッパと、細身の渡辺という組み合わせが、いかにも凸凹コンビらしくて魅力的ですね。
古川ロッパ 渡辺篤 #このタッグが最強と思う人
— 福助 (@2649returns) February 14, 2012
息がピッタリだった2人の名演は、いつまでも色あせることがありません。
ロッパの生涯を知った上で彼の名演を鑑賞してみてください。
才能ある彼が不幸な晩年を送ったことが、より一層悲しく感じられるでしょう。
コメント
ロックさんは養子のはず。