辻邦生の死因と事故。息子とインテリ家族。軽井沢山荘での執筆活動について

フランス文学の専門知識を土台に、幅広い表現や評論活動を展開した辻邦生(つじ くにお)さん。

歴史小説の『背教者ユリアヌス』や『西行花伝』で有名な作家でもありました。

1999年に亡くなるまで、信濃毎日新聞でのエッセイの連載に力を注いでいます。

今回は辻さんについて、死因、事故の詳細に迫りましょう。

また息子と家族、軽井沢の山荘についてもご紹介します。

辻邦生のプロフィール


本名:辻邦生

生年月日:1925年9月24日

死没:1999年7月29日

身長:不明

出身地:東京都

最終学歴:東京大学大学院仏文科

辻邦生の死因

小説や評論の執筆に生涯を捧げた辻さん。

1999年7月29日、73歳で急逝しました。

死因は、心筋梗塞によって引き起こされた、急性心不全でした。

夏だったため、避暑地の軽井沢にある山荘で過ごしていた時、突如倒れたそうです。

藤原定家を主人公とした長編小説『定家春秋』の執筆に意欲を見せていましたが、構想のみに終わってしまいました。

没後5年の2004年から『辻邦生全集』が刊行され、多くの人が手にした結果、今でも根強い人気を誇る作家となっています。

とくに人気なのは、歴史ロマンを感じさせる大河小説。

先述の『定家春秋』は『浮舟』と改題され、発表予定でしたが、完成していればより多くのファンを獲得したはず。

急逝が惜しまれる作家といえますね。

事故の経緯と絶望

辻さんは1996年、自動車事故に遭い、頸椎を損傷しています。

以来、思うように身体が動かなかったようで、右に流れるような形の文字しか書けなくなってしまいました。

仕事がはかどらなくなり、取り組みたい仕事も断念せざるを得なかったようです。

1999年は「ゲーテ生誕250年」という節目の年だったにもかかわらず、「ゲーテ特集」の原稿依頼を断りました。

同年中に亡くなってしまった辻さん。

思わぬ形で不運に見舞われ、生きる気力を失ってしまったのでしょう。

大好きな文筆活動に励めなかった最後の3年間は、絶望的な期間だったのかもしれません。

辻邦生の息子は?

辻さんには長男と次男がいました。


しかし2人とも早世しており、情報はありません。

何らかの病気により、幼くして亡くなった可能性が高いです。

ただネット上では、ミュージシャンで作家の辻仁成さんについて、「辻さんの息子だと思っていた」という声が多数見られました。

実際には、2人は親子ではありません。

ただ仁成さんはパリ在住のため、確かにフランス文学者の辻さんと関係がありそうに思えますね。

同じ「辻姓」で、フランスと縁がある人物という点で、2人を結びつけてしまった人が多いのでしょう。

インテリの家族

辻さんの家族には、インテリの人々が数多くいます。

父はジャーナリストの辻靖剛で、薩摩琵琶の演奏家としても活躍したそうです。

母は医者の家に生まれたエリートだったため、辻さんは幼い頃から勉強熱心だったのでしょう。

東京大学卒業の翌年、5歳年下の後藤佐保子さんと結婚。


彼女もまたインテリの学者で、東京大学で美術史を学び、パリ大学で博士号を取得しています。

著作『古典世界からキリスト教世界へ』では、サントリー学芸賞を受賞。

名古屋大学名誉教授や国立西洋美術館評議員も務めた、著名な西洋美術史家でした。

辻さんと佐保子さんは、インテリ研究者同士、おしどり夫婦だったそうです。

佐保子さんは2011年に心筋梗塞で亡くなりました。

夫を亡くしてから約10年の間、1人で寂しく暮らしていたようです。

今では天国で夫と再会し、文学や美術の話に興じているかもしれませんね。

軽井沢山荘での執筆活動

辻さんは亡くなるまで、軽井沢の山荘で執筆に励んでいました。

山荘は、1976年に建築家の磯崎新さんが設計し、建てられたものです。

2013年夏に、文学館「軽井沢高原文庫」へ寄贈され、翌年に一般公開されました。

木造2階建ての山荘で、2階には辻夫婦がそれぞれ過ごした書斎があり、いずれの部屋からも浅間山を拝むことができます。

夫婦は夏になると別荘へ赴き、軽井沢の自然を楽しんでいたのでしょう。

また絶筆となった辻さんの原稿が机に乗ったまま保存され、蔵書やレコード、美術品も残っています。

夫婦の生活空間を生のまま知ることができる、貴重な建築物です。


辻作品のファンなら、ぜひ一度は足を運びたいですね。

突然の事故と病気で、思わぬ不運に見舞われた辻さん。

しかし彼が残した作品群は、時代を超えて読み継がれていくことでしょう。

北杜夫の妻・喜美子。娘と息子について。父は斎藤茂吉。孫の作品を執筆

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