北杜夫、妻・喜美子との関係。娘はいるが息子なし。父・斎藤茂吉は歌人&孫がエッセイに登場

エッセイ「どくとるマンボウ」シリーズで知られる作家の北杜夫(きた もりお)さん。

2024年で没後13年を迎えますが、ユーモラスなエッセイや小説が今でも高い人気を誇っています。

今回は北さんの妻、娘、息子の情報に迫ります。

また父の斎藤茂吉についてご紹介しつつ、孫の情報も確認します。

北杜夫のプロフィール

本名:斎藤宗吉(さいとう そうきち)

生年月日:1927年5月1日

死没:2011年10月24日

身長:不明

出身地:東京都港区南青山

最終学歴:慶應義塾大学大学院医学研究科博士課程修了

北杜夫の妻、喜美子

北さんの妻は、喜美子さんという女性でした。

1969年頃から、北さんは「躁うつ病」を発症。

一日中興奮している「躁」の状態と、落ち込んで寝ている「うつ」の状態をくり返す病気でした。


以前までは温厚で、家族にも「ごきげんよう」と挨拶していた北さん。

しかし突然、妻に向かって「喜美子のバカ!」と怒鳴ったそうです。

また「チャップリンみたいなコメディ映画を作る!」と宣言し、資金稼ぎのために4つの証券会社と株取引を開始。

結果的に破産した時期もあったそうです。

喜美子さんは夫が株に手を出そうとした時や、出版社から借金しようとした時は、引き止めるのに苦労しています。

妻に引き止められる度に北さんは、「お前は作家の妻失格だ! 出て行け!」と怒鳴りました。

株取引の失敗により、夫婦は一時期別居したそうです。

しかし喜美子さんは決して、夫の病気とトラブルを深刻に受け止めませんでした。

子供に対して、「今、パパは躁なの」と話し、普通に過ごしていたそうです。

深刻な雰囲気を作ると、子供が悲劇的な家庭で育つことになり、成長に悪影響が出てしまうと考えたのでしょう。

そんな喜美子さんですが、かつて義母に弱音を吐いたことがあったそうです。

すると義母は、「うちは代々変人が多いから、看護婦になったつもりで夫に尽くしなさい」と言いました。

以来、喜美子さんは、「看護婦」のつもりで夫を支えていたのです。

結果的に「腫れ物」として夫を扱わず、「変わった人」としてドライに接することができたのでしょう。

生涯、北さんに寄り添った喜美子さん。


変わり者の夫と大切な子供のために、暗い気持ちにならないよう、日々努力していたのでしょう。

妻への置手紙

病気だったとはいえ、前述のように怒鳴りつけるなど、喜美子さんにはとてもひどい仕打ちをしていたらしい北さん。

ですが、まったく反省しなかったわけではないようです。

というのも、当時の北さんは喜美子さんに毎日手紙を書いていたのだとか。

内容はいつも同じで、「今日からおとなしくなります」というもの。

それを毎朝キッチンに置いていたそうです。

躁うつ病とはいえ、妻を怒鳴ったあとなどは罪悪感に悩まされていたのではないでしょうか。

しかし面と向かって謝ることもできず、手紙で伝えることにしたのかもしれません。

ただ、それが毎日となると、あまり誠意を感じられませんね。

手紙でおとなしくなると誓った日も、当たり前のように怒鳴り散らすことはあったのではないでしょうか。

本当におとなしくしていたのなら、翌日も同じ文面の手紙を書く必要はないはず。

いくら手紙を書いても、そのとおりにはならなかったものと思われます。

そうなると、喜美子さんは夫の手紙をまったく信用できなかったでしょうね。


ちなみに、当時の手紙は世田谷文学館の「セタブン大コレクション展」で展示されたこともあります。

実物を見た人の話では、高圧的な命令の隣に「おとなしくなる」と書かれた手紙もあったのだとか。

こんな書き方では、本当に悪いと思っているように見えませんね。

しかも、文面とは真逆の行動を繰り返し、毎日同じことを書いていたわけです。

喜美子さんが手紙を信じるのは不可能だったことでしょう。

時代が違ったら妻から見捨てられていた?

北さんの娘である斎藤由香さんは、喜美子さんが「今の時代なら離婚」ともらしているのを聞いたことがあるそうです。

実は当時も、冗談で「離婚」と口にすることはあったらしい喜美子さん。

当時は本気ではなかったとしても、あとになって思い出すと、我慢し続けたことが不思議に感じるのかもしれません。

また同じことがあったら本当に離婚宣言をしたくなるほど、北さんの振る舞いはひどいものだったのでしょう。

それでも寄り添い続けたのは、本当にすごいですね。

北杜夫に娘はいるが息子はいない

北さんには斎藤由香さんという娘がいます。

成城大学卒業後、サントリーの広報を経て、エッセイストになりました。

親子対談『パパは楽しい躁うつ病』では、父の躁うつ病についてユーモラスにまとめています。

躁うつ病という病気の認知度を高めた書籍であると同時に、病気を深刻に受け止め過ぎないことの大切さも伝わってくる作品です。


由香さんは幼少期、父の症状を楽しんで眺めていたといいます。

父が「躁」の状態で興奮している時は、予想外の言動や行動が見られるため、面白かったのでしょう。

「躁」の時は税金が高い日本から独立するため、架空の国家「マンボウマブゼ共和国」について想像していたそうです。

妻に頼んで国旗も作ってもらい、国家や紙幣まで考案したとのこと。

逆に気分の落ち込みが激しい「うつ」の時は、寝ているだけだったため、実害はなかったそうです。

ただ由香さんが楽しく幼少期を過ごせたのは、母の喜美子さんが家庭内を悲劇的な雰囲気にしないよう努力したおかげでしょう。

また北さんに息子がいたかどうか調べましたが、情報はありませんでした。

おそらく子供は由香さんだけなのでしょう。

父・斎藤茂吉は歌人

北さんの父は、日本文学史に名前を残す、歌人の斎藤茂吉です。

歌誌「アララギ」で活躍した、「アララギ派」の代表的歌人でした。

同時に精神科医としても活動していたため、北さんは父から、医者と文学者としてのDNAを継いだといえます。

茂吉の短歌に若くして感銘を受けた北さんですが、医学部進学を父から厳命されて以来、反抗心が芽生えていたようです。

北さんは茂吉の息子であることを隠そうと、本名の斎藤宗吉を隠し、「北杜夫」というペンネームを使っていました。


父の威厳に頼るのは、自尊心が許さなかったのでしょう。

「七光り」と呼ばれるのも避けたかったといいます。

いずれにせよ、実力で有名になり、父を超えたかったであろうことは間違いありません。

実際、文学史に疎い人の間では、茂吉より北さんの知名度が高いのではないでしょうか。

父を尊敬しながら、内心では反発し続けた結果、「北杜夫」という独立した名文家になれたといえますね。

孫が登場するエッセイ

北さんは1997年、エッセイ『孫ニモ負ケズ』を発表。

娘である由香さんの長男で、北さんの孫である「ヒロ君」との日常を描きました。

由香さん夫婦は共働きのため、北夫婦が孫の面倒を見ていたそうです。

ヒロ君は97年時点で6歳くらいだったそうですから、2024年は32歳前後の立派な大人になっているはず。

詳細は不明ですが、インテリ一家で育ったため、知的な男性になっているのでしょう。

北さんは孫に対して、「じいじが死んだら悲しい?」と訊ねていたそうです。

小さな声で「うん」と答えたヒロ君。


孫の本音を引き出して、満足していたことでしょう。

北さんは、あたたかい家族に支えられ、病気を抱えながらも楽しく生きたのかもしれませんね。

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