歌人で精神科医だった斎藤茂吉(さいとう もきち)。
代表的な歌集『赤光』や『あらたま』などについて、国語の授業で習った人もいるでしょう。
今回は茂吉の家系図、息子の北杜夫さん、母について見ていきます。
また永井ふさ子という女性との恋愛に迫りつつ、茂吉の子孫は今もいるのか確認しましょう。
斎藤茂吉のプロフィール
本名:斎藤茂吉(しげよし)
生年月日:1882年5月14日
死没:1953年2月25日
身長:不明
出身地:山形県
最終学歴:東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)
斎藤茂吉の家系図
茂吉の父は山形県で農家を営む守谷伝右衛門熊次郎でした。
守谷家は経済的に苦しかったため、茂吉は東京の浅草で病院を営む精神科医・斎藤紀一の養子候補となります。
茂吉の母方の祖母ちんが、紀一の妻だったため、守谷家と斎藤家には結びつきがあったのです。
また紀一の姉わかは、蔵王温泉「わかまつや」の主人だった斎藤長右衛門に嫁ぎました。
そして茂吉自身は、斎藤家の婿養子として、紀一の次女輝子と結婚しています。
守谷家は経済的な余裕こそなかったものの、斎藤家という裕福な家庭との結びつきで、子孫を絶やさずに済んだのでしょう。
斎藤茂吉の息子は?
では以下で、より詳しく茂吉の家族について見ていきましょう。
茂吉の息子には長男の斎藤茂太(しげた)さんと、次男の北杜夫さんがいます。
茂太さんは、父と同じく精神科医として活躍しながら、作家としても『茂吉の体臭』といった著作を残しました。
次男の北さんは、『楡家の人びと』や「どくとるマンボウ」シリーズで知られた有名作家です。
熱烈なファンではないが北杜夫の著作も少し持っている。旧制高校時代は松本で大学は東北大医学部で仙台に暮らした。
成人になって父 斎藤茂吉の偉大さに気付き崇拝していた。それが茂吉四部作を生んだと思う。 pic.twitter.com/JuYyVxOEAE— 亡羊堂 (@lostsheep4books) February 19, 2021
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北杜夫
『さびしい乞食』おとなとこどものための童話
シリーズ 第2作目『さびしい王様』 続編 pic.twitter.com/cSh3Rghbh1
— 和歌山の読書人 (@ym316d) November 30, 2020
さらに、父と兄と同じく精神科医としても活動。
また精神疾患の躁うつ病に苦しんでいたそうです。
躁うつ病は、興奮状態にある「躁」と、気分が落ち込む「うつ」をくり返す病気。
北さんは『マンボウ響躁曲 地中海・南太平洋の旅』など、作品に「躁」の文字を使っています。
つまり自身の病気を精神科医として冷静に分析し、ユーモラスに表現する余裕がある人だったのでしょう。
#北杜夫 は日本の小説家および精神科医。父は歌人の斎藤茂吉。代表作は「どくとるマンボウ航海記」で、1960年には「夜と霧の隅で」で芥川賞を受賞した。
実は壮年期より躁うつ病を発症している。しかし北はユーモラスに描くことで躁鬱に対するイメージを和らげた。2011年の本日死去。 pic.twitter.com/c3iPXXznx3
— 役立つ情報がいっぱい! (@ijinmeigen001) October 24, 2020
精神科医と文学者という茂吉のDNAは、かなり濃かったことがうかがえますね。
母をテーマにした作品が多い
茂吉の代表的な歌には、母がテーマの作品が多くあります。
「みちのくの 母のいのちを 一目みん 一目みんとぞ ただにいそげる」は、最も有名な作品ですね。
1913年、母いくが亡くなり、「死にたまふ母」を連作で発表しました。
山形県の守谷家に生まれた茂吉ですが、経済的な事情により上京し、精神科医の一族斎藤家の婿養子となります。
ただ嫁の輝子はあまりにも奔放で、相性がよくなかったようです。
養子になって以来、まじめに勉学へ精を出していた茂吉ですが、心の中では郷里の母を思っていたのでしょう。
冒頭で紹介した代表作は、母が危篤という知らせに、一刻も早く郷里へ帰りたいという気持ちが表れています。
母と過ごした時間は長くないものの、実母を慕う気持ちは強かったことがうかがえますね。
永井ふさ子との恋愛
1934年9月16日、茂吉は「正岡子規忌歌会」で、永井ふさ子という24歳の美女と出会いました。
当時の茂吉は52歳で、前年に妻の輝子と別居しています。
きっかけは、富裕層の女性と不倫や遊興を展開していたダンス教師が摘発された、「ダンスホール事件」。
輝子がダンス教師の取り巻きとして、事情聴取を受けたのです。
以前からケンカが多かった茂吉夫婦は、事件をきっかけに別居。
落ち込んでいた茂吉にとって、突如現れた美女ふさ子は、女神のように見えたでしょう。
彼女は愛媛県出身、父親は医師で、正岡子規と親戚関係にあったそうです。
そのためふさ子は教養があり、歌にも理解がありました。
茂吉は美しく聡明な彼女を愛弟子として迎え、恋愛関係に至ります。
親子ほど年齢の離れた2人でしたが、100通近い往復書簡を交わしました。
茂吉は日に日にふさ子への想いを募らせていきます。
1936年11月24日には、「とりこになっています」と書いた手紙を手渡ししました。
さらに2日後、「ふさ子さんはなぜこんなにいい女なのですか」と素直な言葉を書いた手紙を、やはり手渡しします。
息子の北さんは、父の恋文について「赤裸々でうぶな文章」と評しました。
しかしふさ子は、「不倫関係を続けるわけにはいかない」と婚約。
それでも茂吉はラブレターを送り続け、ついに肉体関係に及びました。
良心の呵責によってふさ子は翌年に婚約を解消し、生涯独身を貫いたそうです。
生涯、ひっそりと暮らすことを決意したふさ子。
ただし茂吉の死後、残っていた往復書簡80通を雑誌へ掲載し、世間に2人の関係を公表しました。
彼は生前、ラブレターを燃やして破棄するよう頼んでいたため、世間に関係を知られたくなかったことがうかがえます。
しかし彼女はラブレターを大切に保管し、ついには公表しました。
もしかしたら、「本当に彼を愛したのは自分だけだ」という気持ちを、世間に伝えておきたかったのかもしれません。
斎藤茂吉の子孫は?
最後に、今も茂吉の子孫がいるのか確認しましょう。
子孫は、1962年生まれのエッセイスト斎藤由香さんです。
父は北杜夫さんのため、茂吉直系の孫にあたります。
成城大学文芸学部国文学科を、祖父をテーマとした卒論で卒業しました。
卒業後はサントリーの広報部に就職し、広報誌「サントリークォータリー」の編集を担当。
その後、広告会社への出向を経て、書籍『窓際OL トホホな朝ウフフの夜』を刊行。
エッセイストとして活動を始め、2009年には北さんとの親子対談をまとめた、『パパは楽しい躁うつ病』を発表しています。
父の躁うつ病にまつわるエピソードをまとめ、少しでも当事者の役に立つ本を目指したそうです。
身内の病気を客観視し、ユーモラスにまとめられる由香さんは、文才だけでなくポジティブな性格に恵まれた人なのでしょう。
斎藤家の人々には、医学と文学を武器にできる、強力なDNAが流れていることがわかりましたね。
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