後藤新平のコレラ対策と検疫事業。公衆衛生問題で政治家に。台湾衛生と復興、功績

医師、政治家として活躍した後藤新平(ごとう しんぺい)。

新型コロナウイルスが猛威をふるった2020年、奥州市の「後藤新平記念館」で、彼の検疫事業に関する特別展が開かれました。

およそ125年前、後藤は日清戦争の帰還兵に対する検疫事業で、手腕を高く評価されたのです。

今回は後藤のコレラ対策、検疫事業に迫り、公衆衛生と台湾衛生における彼の功績をまとめます。

後藤新平のプロフィール


本名:後藤新平

生年月日:1857年7月24日(安政4年6月4日)

死没:1929年4月13日

身長:不明

出身地:陸奥国胆沢郡鹽竈村(現在の岩手県奥州市水沢)

最終学歴:須賀川医学校

後藤新平のコレラ対策、検疫事業の詳細

まず後藤のコレラ対策についてです。

1895年(明治28年)、後藤は日清戦争の帰還兵への検疫事業を担う、「陸軍検疫部」の事務官長となります。

中国ではコレラをはじめとした感染症が流行しており、帰還兵およそ23万人が日本へ入れば、国内流行は必至でした。

後藤はまず、広島や似島(にのしま)に検疫所を置き、帰還兵全員に対して検疫を実施します。

健康と診断された兵は消毒風呂へ入浴させ、症状がある兵は隔離させました。

荷物は北里柴三郎監修による装置で蒸気による消毒を実施。

徹底的な検疫事業は、世界的にも稀な大規模検疫として国外でも知られ、ドイツ皇帝が驚いたといわれています。

大がかりな検疫事業に、「そこまでやらなくても」とあきれる人もいたかもしれません。

しかし後藤の徹底的な検疫によって、コレラは国内で流行しませんでした。

彼のコレラ対策が国を救った事実から考えると、「大げさすぎる」くらいの感染症対策が必要ということでしょう。

公衆衛生問題で政治家へ

公衆衛生、すなわち「パブリックヘルス」。

後藤は医師・検疫官、そして東京市の市長としても、常に「パブリック」を重視した人物でした。

後藤は医学校を卒業後、医師として高い実績を残したのち、内務省の衛生局へ入ります。

国内の衛生問題を扱い始めたことが、政治家となるきっかけでもありました。

彼は身内には「冷や飯」を食べさせてでも、公衆のために尽くしたといわれています。

国内のコレラ対策として実行した検疫事業のみならず、彼は台湾の公衆衛生でも功績を残していました。

台湾衛生事業と復興

帰還兵へのコレラ検疫実施で世界的に評価された後藤は、1898年(明治31年)から台湾総督府の民政局長となりました。

後藤は財政が破綻状態だった台湾において、産業や鉄道の発展を担い、見事復興させます。

同時に衛生対策がなされていなかった台湾の疫病問題にも着手。

こうして後藤による統治の結果、予防接種が義務化されました。

さらに鉄筋コンクリートによる上下水道が敷設され、人々は清潔な水を使えるようになります。

台湾大学医学院の前身である台北医学校が設立され、国内の医療従事者育成が本格化したのも、後藤の統治時代でした。


のちに後藤は、拓殖大学の学長となり、旧制専門学校だった同校を旧制大学へ昇格させようと奮闘。

その際、必要な資金を支援してくれたのが、台湾の製糖会社でした。

後藤が整備したことで豊かになった台湾の人々は、彼への恩を返してくれたのです。

結果的に拓殖大学は、見事に旧制大学となりました。

後藤は台湾衛生の礎を築いた同時に、台湾と日本との結びつきを強めた人物だったのです。

後藤新平の功績まとめ

後藤はどのような分野でも、必ず高い手腕を発揮しました。

彼の功績は日本におけるコレラ流行阻止、台湾における衛生環境の整備など、輝かしいものばかりです。

後藤に台湾統治を命じたのは、児玉源太郎陸軍次官でした。

1906年(明治39年)には同じく児玉から、今度は満州を統治して欲しいと依頼されます。

こうして後藤は満鉄総裁となり、鉄道のインフラ整備、衛生施設拡充を推進。

台湾統治の際に手腕を発揮した若手も引き抜き、満州でも大きな成果を残しました。


新型コロナウイルスが流行する現代、後藤なら感染症対策にどんな提言をするでしょうか。

器が大きく、大胆な発想で知られた後藤。

現代人1人ひとりが彼の方法からヒントを得て、今後の道筋を考えてみることも大切かもしれませんね。

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