東京市長や関東大震災の復興担当として活躍した後藤新平(ごとう しんぺい)。
さまざまな分野で手腕を発揮した人物ですが、プライベートな情報はあまり知られていないかもしれません。
今回は後藤について、プライベートと仕事上の功績をそれぞれ見ていきます。
子孫である思想家の鶴見俊輔さん、家系図、妻の詳細を確認し、東京市長時代のエピソード、関東大震災復興計画に迫りましょう。
後藤新平のプロフィール
本名:後藤新平
生年月日:1857年7月24日(安政4年6月4日)
死没:1929年4月13日
身長:不明
出身地:陸奥国胆沢郡鹽竈村(現在の岩手県奥州市水沢)
最終学歴:須賀川医学校
後藤新平の子孫は鶴見俊輔
まず後藤の子孫、鶴見俊輔さんについてです。
「言い残しておくこと」鶴見俊輔を読了。鶴見俊輔の晩年の著作。後藤新平の話、まちがえ主義、鶴見のエリートとは何か?という考えが特におもしろかった。現代への批判も多く語れており、私と鶴見の著作の同時代性をはじめて感じた。 pic.twitter.com/lGa2ZE9xWg
— Theopotamos (Kamikawa)@4/4鶴見俊輔を読む会企画中 (@Theopotamos) October 20, 2018
鶴見さんは戦後日本を代表する思想家でした。
後藤の娘である愛子は、父が初代総裁を務める鉄道院で勤務していた鶴見祐輔と結婚。
愛子と祐輔の息子が鶴見俊輔さんのため、彼は後藤の孫にあたります。
戦後は姉で社会学者の鶴見和子さんや、丸山眞男らと共に雑誌「思想の科学」を創刊。
ベトナム戦争時には反戦を主張し、憲法9条保護を訴えるなど、左派知識人の代表格として活躍しました。
そんな彼ですが、10代の頃は万引きや女遊びをくり返す、筋金入りの不良でした。
彼が非行に走った理由は、しつけの厳しかった母の愛子に、反抗したくなったためのようです。
祖父である後藤からは深く愛されていたそうですが、あまりに非行がひどかったため、アメリカへ追いやられることになりました。
#鶴見俊輔 さんは厳しい母親(後藤新平の娘)への反発から10代前半で女遊びに興じるなどのワル(その結果、留学という形で米国に追いやられる)。画像(中央・後藤新平に抱かれる俊輔)のように孫の中で1番可愛がられた事への捻れた精神性がその後の思考形成にも影響したのかな(『戦争が遺したもの』) https://t.co/6Rl4ltaw66 pic.twitter.com/rQTYAf3f9G
— 裕次郎 (@Yuh_artisan) November 2, 2019
アメリカで一念発起し勉学に励み、ハーバード大学で哲学を修めて卒業しています。
結果的に鶴見さんは、アメリカの地から日本を客観的に分析する視野を手に入れたのです。
こうして彼は、インテリな後藤の血を継いだ「不良知識人」となり得たのでしょう。
後藤新平の家系図
後藤家は元々、仙台藩一門である留守家に使える武家でした。
後藤の両親は、留守家の家臣だった後藤実崇と、彼の妻の利恵です。
また江戸後期に活躍した著名な蘭学者である高野長英は、後藤家とは遠縁にあたります。
さらに後藤の妻である和子は、明治時代の官僚だった安場保和(やすば やすかず)の娘でした。
複数の名家が入り混じった家系図といえるでしょう。
献身的に支えた妻・和子
後藤を献身的に支えた妻の和子。
後藤新平の妻、和子。おっかなそうな顔をしているが実は優しい人だったそう。家族によると台湾時代の後藤はかなり厳しい人で、叱責を浴びて心が折れた人が数多くいたそうな。和子はそんな人をこっそり呼んで慰めていたという。#台湾史 pic.twitter.com/aRcsuPV04I
— 台湾史.jp (@Formosanhistory) November 22, 2020
後藤はかなりの癇癪持ちで、周囲の人々を傷つけることも多かったようです。
和子は夫をしっかりと受け止め、傷ついた人には手を差し伸べる、優しく気丈な女性だったといいます。
内助の功を発揮した、古風な日本女性だったのでしょう。
新渡戸稲造は彼女について「厳格な家庭で教育を受けたため、態度や身だしなみが正しかった上、忍耐強かった」と評しています。
感情的になりやすい後藤に、堂々たる態度で接していた和子。
結婚25周年の際に後藤は、長年支えてくれた和子に感謝の気持ちを表し、アメリカ旅行へ連れて行きました。
後藤が多分野で活躍できた原動力は、どんな状況でも支え続けてくれた和子の深い愛情だったのでしょう。
東京市長時代のエピソード
後藤は1920年(大正9年)から3年間国政を離れ、東京市長を務めています。
着任早々、あろうことか市長の給料を値上げするよう求めたそうです。
当時市長の給料は、年間2万円でしたが、5千円プラスするよう要求。
後藤があまりに強く要求するため、給料は値上げされました。
すると後藤は、支給された給料すべてと、所得税3千円を東京市へ寄付したのです。
彼による寄付金は、東京市の社会教育費に活用されました。
後藤が歴代市長の中でも、非常に器の大きい人物だったことがうかがえるエピソードですね。
後藤新平の関東大震災復興計画について
1923年9月1日に起きた関東大震災。
10万人もの死者を出した未曽有の災害の直後、後藤は第2次山本権兵衛内閣で、帝都復興院の総裁に就任。
東京の震災復興計画を考案します。
幅の広い道路の建設や、緑地を増やす計画でしたが、実行には大規模な区画整理が必要でした。
必要な費用は国家予算のおよそ1年分にあたる13億円だったため、財界から猛反対されます。
とはいえ今の靖国通りや明治通りといった大通りが整備されるには、後藤の復興計画が不可欠でした。
そのため今の東京を形作ったのは、他ならぬ後藤だったといえるでしょう。
しかし緑地化までは、彼の思惑通りに進みませんでした。
後藤の計画が実現していれば、1945年の東京大空襲時、被害はもっと少なかったともいわれています。
後藤は関東大震災の復興に心血を注ぎ、見事都市を復活させました。
しかし今の東京はコンクリートが多く、決して災害に強い街とはいえません。
あらゆる分野で功績を残した彼ですが、財界からの反発には抗えず、理想の東京を実現できなかったといえそうです。
東京の復興に大きく貢献した後藤。
彼の復興計画の価値が見直され、次の災害時における新たな街づくりへ活かされることを願ってやみません。
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