台湾でもっとも尊敬される日本人といわれてきた八田與一(はった よいち)。
台湾の烏山頭ダム(うさんとうダム)の設計・建築者であり、台湾統治政府の土木技師として活躍しました。
八田とその妻は、台湾での知名度が非常に高いそうです。
今回は八田の妻、子供のその後、孫を確認し家系図をまとめます。
また金沢の生家についてもご紹介します。
八田與一のプロフィール
本名:八田與一
生年月日:1886年2月21日
死没:1942年5月8日
身長:不明
出身地:石川県河北郡花園村(現在の石川県金沢市今町)
最終学歴:東京帝国大学工学部土木科(現在の東京大学)
八田與一の妻、外代樹
まず八田の妻について見ていきます。
八田の妻は、美しく聡明な外代樹(とよき)という女性でした。
31歳だった八田は、桃園大圳の水利工事で高く評価され、気鋭の水利技術者として活躍していました。
そんな中、まだ16歳の外代樹と結婚。
彼女は、金沢の開業医米村吉太郎の長女でした。
女学校時代の通知表によると、最終年度で1位の成績を獲得しており、非常に賢い女性だったことがわかります。
子供が図書室から借りてきた、台湾にダムを作った八田與一の伝記、自分も読んでみた この本で知る限りだが、優秀で気概に満ちた人だな 子供も興味持ったら実際にダムを見に行ってみたい pic.twitter.com/CAK9pOOxlt
— Aoyama (@xuan8a1) December 21, 2019
怜悧で勤勉、温厚な性格だったといわれる外代樹。
結婚後、八田夫婦は深く愛し合い、円満に過ごしていたようです。
しかし1942年、おしどり夫婦の別れは突然やって来ます。
八田は陸軍の命令で、綿作の灌漑調査のためフィリピンへ向かいました。
彼が乗船した客船「大洋丸」は、五島列島の近くで、アメリカ海軍に撃沈されます。
後日、山口県の萩市沖に八田の遺体が漂着し、漁師に引き揚げられたそうです。
台湾総督府に勤めていた彼の遺体は、台湾の地へ帰りました。
外代樹は戦時中、子供たちと共に烏山島へ疎開しています。
夫の死から終戦までの3年間を、悲しみをこらえて過ごしていたのでしょう。
そして終戦後の1945年8月31日、学徒動員で出征していた長男が無事に帰還。
外代樹は息子の無事を確認した翌日、黒い着物をきちんと身にまとい、夫が建築した烏山頭ダムの送水口へ身を投げます。
おそらく夫を失ってから、戦時中の間に自殺を決意していたのでしょう。
愛する人の死、戦時中の混乱した生活、そして今後の不安に耐えきれず自ら命を絶ったのかもしれません。
「夫の死に殉じた見事な死に様」と称賛する声もあるようですが、彼女の後追い自殺はあまりに重い事実です。
確かに美しい夫婦愛ですが、彼女の死は、戦争が生んだ悲劇に他ならないでしょう。
八田與一の子供その後
八田と外代樹は、二男六女をもうけています。
八田與一の妻外代樹婦人も 銅像の修復完了に 喜んで居るでしょう フィリピンへ向かう 途中に米の潜水艦に 沈められ戦死 婦人は烏山頭へ 疎開して居ましたが 終戦で長男が戦地から帰国を確かめ 8人の 子供を残し入水自殺を遂げる。 pic.twitter.com/WLK0lyM8gy
— 🇯🇵 (@mutu70) May 7, 2017
8人の子供は、両親の死後、どのように過ごしたのでしょうか。
それぞれの経歴の詳細は不明ですが、いずれも立派に成人していることは事実です。
長男の晃夫(てるお)さんは、台北の日本人学校で講演するなど台湾と日本の友好関係を築くため尽力。
ただし美談とされがちな母の死については、「突然死んだ母を、長いこと恨んでいた」と語りました。
最終的に恨みの念は消えたようですが、墓参の度に複雑な思いにさいなまれていたようです。
晃夫さんは、2006年に85歳で亡くなりましたが、長い歳月の中で母への気持ちを整理できたのではないでしょうか。
子供たちは両親の死を乗り越えて一人前となり、それぞれの道を進んでいたことがわかりました。
八田與一の孫は?
八田の孫は複数いますが、とくに八田の墓前祭で活動している八田修一さんの知名度が高いです。
修一さんの父である晃夫さんは、生前八田についてまったく語らなかったといいます。
晃夫さんは父の墓前祭にこそ参加していたものの、やはり両親の死に対して複雑な思いを抱き、話題にすることを避けたのでしょう。
祖父についてほとんど知らなかった修一さんは、墓前祭に多くの人が詰めかけていることに驚いたそうです。
土木技師としての功績のみならず、人格者としても台湾の人々から評価されていた八田。
まさに「日本と台湾の架け橋」といえる人物だったのでしょう。
八田與一の家系図まとめ
八田家は石川県金沢市の開業医でした。
八田の兄である智証(ちしょう)は家業を継ぎ、同じ金沢の開業医米村吉太郎と交流があったそうです。
そこで智証は弟に、米村の娘である外代樹との縁談をすすめたのです。
こうして結ばれた八田夫婦。
智証は、まさか自分が巡り合わせた弟夫婦が、悲劇的な最期を迎えるとは造像していなかったでしょう。
それでも夫婦が残した8人の子供たちは立派に成長し、今でも子孫が脈々と続いています。
八田與一の生家は金沢
八田の生家は金沢市今町に現存しています。
八田與一技師の生家を訪ねました。台湾と深い関わりを持った先輩が吸った空気に触れ、いろいろなことを感じ、考えました。感慨深いです。 pic.twitter.com/Uu1p52pLS0
— 片倉佳史(かたくらよしふみ) (@katakura_nwo) April 15, 2019
八田與一技師生家を訪問。向かいの小学校の一教室を偉人館としており、学習の場にもなっています。教頭先生にご丁寧に解説いただきました。見学者はわりに多いそうです。今年5月に嘉義のダムを訪れ、今回生誕地に来て理解を深めることができました。 pic.twitter.com/piLecFyZPP
— 2nd Horn (@ikthr) November 10, 2015
国の登録文化財に指定される歴史的建造物で、八田が生まれた家の空気を当時のまま感じられる場所です。
生家の目の前には花園小学校があり、校内の一室には八田の功績を伝える「花園偉人館」があります。
台湾と金沢は、八田を通して友好関係を築いてきました。
八田の知名度が日本でも高まれば、台湾との信頼関係がより強まるかもしれません。
さらに多くの日本人が彼の存在を知り、彼の生涯に思いを馳せることが、両国友好への第一歩となるでしょう。
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