台湾でもっとも尊敬される日本人といわれてきた八田與一(はった よいち)。
台湾の烏山頭ダム(うさんとうダム)の設計・建築者であり、台湾統治政府の土木技師として活躍しました。
八田とその妻は、台湾での知名度が非常に高いそうです。
今回は八田の妻、子供のその後、孫を確認し家系図をまとめます。
また金沢の生家についてもご紹介します。
八田與一のプロフィール
本名:八田與一
生年月日:1886年2月21日
死没:1942年5月8日
身長:不明
出身地:石川県河北郡花園村(現在の石川県金沢市今町)
最終学歴:東京帝国大学工学部土木科(現在の東京大学)
八田與一と妻・外代樹の絆
八田與一は、日本の技術者として台湾の発展に大きく貢献した人物です。
彼の人生には、妻である外代樹(とよき)の存在が欠かせません。
ここでは、外代樹がどのような人物であり、二人の結婚生活がどのようなものであったかを詳しく見ていきましょう。
外代樹の人物像と夫婦の絆
外代樹は、八田與一の妻として知られています。
彼女は非常に献身的な人物であり、夫の仕事を支えるために多くの努力を惜しまなかったと言われています。
外代樹は、夫が台湾でのダム建設や灌漑事業に従事する中で、家庭を守り、夫を精神的に支える重要な役割を果たしていました。
外代樹は、夫と共に台湾に渡り、現地での生活を始めました。
彼女は現地の文化や生活習慣に適応しながら、夫の仕事を理解し、支援していたと伝えられています。
外代樹の献身的な姿勢は、夫婦の絆を深める要因となっていたことでしょう。
八田與一は、台湾の発展に大きく貢献したことで知られていますが、その背後には外代樹の支えがあったことは間違いありません。
彼女は、夫の成功を陰ながら支える存在であり、その努力は夫婦の関係をより強固なものにしていたと考えられます。
外代樹は、夫が仕事に専念できるように家庭を守り、子供たちの世話をする役割を果たしていました。
彼女の献身的な姿勢は、夫婦の間に深い信頼関係を築く要因となっていたことでしょう。
また、外代樹は夫の仕事を理解し、彼の夢や目標を共有していたと言われています。
このような共通の目標を持つことで、夫婦の絆はさらに強まりました。
外代樹は、夫の仕事に対する情熱を理解し、その夢を実現するために自らも努力を惜しまなかったことがうかがえます。
彼女の支えがあったからこそ、八田與一は台湾での大規模なプロジェクトを成功させることができたのです。
外代樹の献身的な姿勢は、夫婦の間に深い絆を築く要因となっていました。
彼女は、夫の成功を陰ながら支える存在であり、その努力は夫婦の関係をより強固なものにしていたと考えられます。
外代樹の死は、八田與一にとって大きな悲しみとなりました。
彼女は、夫の仕事を支えるために多くの犠牲を払ってきましたが、その努力が報われることなく、若くして亡くなりました。
外代樹の死後、八田與一は彼女の墓を建て、その場所を訪れることが多かったと言われています。
この行動からも、彼が妻をどれほど大切に思っていたかがうかがえます。
外代樹の死は、八田與一にとって大きな悲しみとなりましたが、彼はその悲しみを乗り越え、妻の遺志を継いで仕事を続けました。
このように、外代樹の存在は八田の人生において非常に重要な役割を果たしていました。
彼女の献身的な姿勢と夫への深い愛情が、八田與一の成功を支える大きな力となっていたことは間違いありません。
外代樹の人生は、夫婦の絆の強さを示すものであり、その姿勢は多くの人々に感動を与えています。
彼女の存在があったからこそ、八田與一は台湾での大規模なプロジェクトを成功させることができたのです。
外代樹の献身的な姿勢と夫への深い愛情が、八田の成功を支える大きな力となっていたことは間違いありません。
これからも、八田與一と外代樹の絆は、多くの人々に感動を与え続けることでしょう。
八田與一の子供その後
八田と外代樹は、二男六女をもうけています。
8人の子供は、両親の死後、どのように過ごしたのでしょうか。
それぞれの経歴の詳細は不明ですが、いずれも立派に成人していることは事実です。
長男の晃夫(てるお)さんは、台北の日本人学校で講演活動などを行った人物。
台湾と日本の友好関係を築くため尽力しました。
ただし美談とされがちな母の死については、「突然死んだ母を、長いこと恨んでいた」と語りました。
最終的に恨みの念は消えたようですが、墓参の度に複雑な思いにさいなまれていたようです。
晃夫さんは、2006年に85歳で亡くなりました。
しかし、長い歳月の中で母への気持ちを整理できたのではないでしょうか。
子供たちは両親の死を乗り越えて一人前となり、それぞれの道を進んでいたことがわかりました。
八田與一の孫は?
八田の孫は複数います。
とくに八田の墓前祭で活動している八田修一さんの知名度が高いです。
修一さんの父である晃夫さんは、生前八田についてまったく語らなかったといいます。
晃夫さんは父の墓前祭にこそ参加していたものの、やはり両親の死に対して複雑な思いを抱き、話題にすることを避けたのでしょう。
祖父についてほとんど知らなかった修一さんは、墓前祭に多くの人が詰めかけていることに驚いたそうです。
土木技師としての功績のみならず、人格者としても台湾の人々から評価されていた八田。
まさに「日本と台湾の架け橋」といえる人物だったのでしょう。
八田與一の家系図まとめ
八田家は石川県金沢市の開業医でした。
八田の兄である智証(ちしょう)は家業を継ぎ、同じ金沢の開業医米村吉太郎と交流があったそうです。
そこで智証は弟に、米村の娘である外代樹との縁談をすすめたのです。
こうして結ばれた八田夫婦。
智証は、まさか自分が巡り合わせた弟夫婦が、悲劇的な最期を迎えるとは造像していなかったでしょう。
それでも夫婦が残した8人の子供たちは立派に成長し、今でも子孫が脈々と続いています。
八田與一の生家は金沢
八田の生家は金沢市今町に現存しています。
八田與一技師の生家を訪ねました。台湾と深い関わりを持った先輩が吸った空気に触れ、いろいろなことを感じ、考えました。感慨深いです。 pic.twitter.com/Uu1p52pLS0
— 片倉佳史(かたくらよしふみ) (@katakura_nwo) April 15, 2019
国の登録文化財に指定される歴史的建造物で、八田が生まれた家の空気を当時のまま感じられる場所です。
生家の目の前には花園小学校があり、校内の一室には八田の功績を伝える「花園偉人館」があります。
台湾と金沢は、八田を通して友好関係を築いてきました。
八田の知名度が日本でも高まれば、台湾との信頼関係がより強まるかもしれません。
さらに多くの日本人が彼の存在を知り、彼の生涯に思いを馳せることが、両国友好への第一歩となるでしょう。
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