初代内閣総理として活躍した伊藤博文(いとう ひろぶみ)。
歴史上の有名人ですが、具体的にどのような人柄の人物だったのでしょう。
今回は伊藤の性格と、性格がうかがえる有名エピソードに迫ります。
また同じく歴史上の偉人である板垣退助、坂本龍馬、明治天皇との関係を確認します。
伊藤博文のプロフィール
本名:伊藤利助
生年月日:1841年10月16日(天保12年9月2日)
死没:1909年10月26日
身長:154cm
出身地:周防国熊毛郡束荷村(現在の山口県光市)
最終学歴:松下村塾
血気盛んな性格のエピソード
伊藤は髭をたくわえた風格ある人物という印象があります。
最終的には伊藤博文に決定いたしました。理由は「ヒゲがないと偽造されやすい」というそうで。たしかに聖徳太子、伊藤博文の他にも新渡戸稲造、夏目漱石などヒゲをはやした人がかなり。現在ほど偽造防止技術が進んでいなかった昭和の時代にはヒゲが重要なポイントだったそうでございます〜。 pic.twitter.com/VARYhTQ4t6
— 岡 俊介 (@JV5jL3YHgE2LR1V) March 24, 2021
しかし若い頃は尊王攘夷運動に明け暮れ、高杉晋作らと共に、反対派の人々を暗殺するなど血気盛んでした。
また勘違いで人を斬ってしまったこともあり、意外と感情的な性格だった可能性が高いです。
ただし反対派にこそ手厳しかったものの、志を同じくする仲間への思いやりは忘れない人でした。
伊藤はハルビンで、韓国の活動家・安重根に暗殺されます。
3発の銃弾を受けてから30分は意識があり、自分の他に誰が傷ついたかを訊ねたそうです。
そして書記官の森槐南が負傷したと知り、「森もやられたか」と言ったのが最後の言葉となりました。
銃弾を3発も受けながら、最後の瞬間まで誰かを思いやれるほど器の大きい人物だったのでしょう。
伊藤博文の性格がわかる有名エピソード
伊藤は暗殺時のエピソードからわかる通り、どんな状況下でも誰かを思いやれる人物でした。
一方で、偉人らしからぬ一面もあったことがわかるエピソードが残っています。
彼はかなりの女好きで、最初の妻すみ子とは、彼の浮気が原因で離婚。
体調が悪くても芸者遊びは欠かさず、40度の高熱で寝込んでいた時は、寝床の両側に芸者を2人はべらせていたそうです。
掃いて捨てるほど愛人がいるため、「ほうき」とあだ名をつけられるほどでした。
再婚相手の梅子は、彼が芸者と遊んでも受け入れてくれたといいます。
そのため伊藤は、自宅に妻がいてもお構いなしに芸者を連れ込んでいました。
次々と女を替えていた事実は、さすがに歴史の教科書には掲載できませんね。
「英雄色を好む」の言葉通りの性格ですが、「立派な人物」とは言い難い一面といえるでしょう。
板垣退助とは真逆の立場
伊藤と板垣退助は、共に近代日本の立憲政治を創り上げた人物です。
憲法を創った人物が伊藤なら、国会を創った人物は板垣といえます。
2人は立派な髭がトレードマークで、一見似ているため、区別がつかない人も多いかもしれません。
左:板垣退助
右:伊藤博文うん…似てる似てるwww pic.twitter.com/DrKtQLQ9Yw
— こじまけいご♈︎ (@keigo0401kojima) February 12, 2015
しかし2人は当初、真逆の立場にいました。
板垣は自由民権運動を推し進め、「国民代表の議会」を中心とした政治を提唱。
一方で伊藤は、「政府中心の政治」を提唱し、板垣らを弾圧していたのです。
しかし自由民権運動の勢いは衰えず、ついに伊藤は1881年(明治14年)、国会開設を認めました。
当初は敵と味方同士だった2人が、国会を開設し、共に近代国家を創り上げていったのです。
伊藤博文と坂本龍馬との接点
伊藤と坂本龍馬は、わずかながら接点を持っています。
1865年(慶応元年)長州藩は、下関戦争や長州征伐により力を失い、危機的状況に陥っていました。
そこで長州藩は武器を調達し、再起を図ろうと計画。
伊藤は武器調達担当として、長崎のグラバー商会から武器と船の調達に成功しました。
結果的に第二次長州征伐では、長州藩が幕府軍に勝利するのです。
この時、武器調達を斡旋してくれたのが坂本龍馬でした。
龍馬は長州藩に、薩摩藩名義で銃器と弾薬を購入させることで、見事武器調達を成功に導くのです。
伊藤は龍馬を「傑出物」と称し、「どこへ行っても相手を説得でき、受け入れられる人物だった」と語っています。
龍馬は伊藤も認めるほどの、高い対話力と営業力を備えた策略家だったといえますね。
伊藤博文と明治天皇
伊藤は明治天皇から非常に信頼されていました。
明治天皇は、こびへつらわない無骨な人物を好んだそうで、伊藤はこの性格に当てはまったのです。
日露戦争開戦の直前には、明治天皇が伊藤を早朝から呼び出し、「前もって伊藤の意見を聞きたい」と発言。
伊藤は「万一日本が敗戦した場合、明治天皇も重大な覚悟をする必要がある」と答えたそうです。
明治天皇は伊藤に「東京から離れるな」と命じ、いざという時、必ず頼りにしていたことがうかがえます。
しかし彼の女遊びには、さすがの明治天皇もあきれて、「ほどほどにしなさい」と苦言を呈しました。
明治天皇に注意されてもなお、彼は女遊びを続けたといいます。
伊藤は政治家として重要な役割を果たしたものの、誠実で立派な人物というわけではなかったのです。
だからこそ、常識人には真似できいない行動に、惹かれてしまう人が多いかのもしれませんね。
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