初代をはじめ、内閣総理大臣を歴任したことで有名な伊藤博文(いとう ひろぶみ)。
「明治の偉人」というイメージが強いですが、今回は彼の家庭事情を掘り下げましょう。
まず博文の子孫を見ていき、家系図をまとめます。
さらに生家と邸宅、家紋を確認します。
伊藤博文のプロフィール
本名:伊藤利助
生年月日:1841年10月16日(天保12年9月2日)
死没:1909年10月26日
身長:154cm
出身地:周防国熊毛郡束荷村(現在の山口県光市)
最終学歴:松下村塾
伊藤博文の子孫は?家系図まとめ
まず博文の子孫、家系図を見ていきます。
博文の父は林十蔵という百姓でした。
十蔵は周防国で暮らしていましたが、破産したのち、長州藩の蔵元付中間だった水井武兵衛の養子となます。
そして武兵衛は、足軽である伊藤弥右衛門の養子となり、伊藤直右衛門と改名。
結果的に、十蔵と博文親子も伊藤家の足軽となりました。
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博文には先妻のすみ子、後妻の梅子との結婚歴があり、梅子が二女を産んでいます。
それ以外の子供たちは、いずれも庶子でした。
梅子が産んだ長女・伊藤貞子は2歳で夭折。
次女の末松生子は、伊藤内閣の大臣だった末松謙澄と結婚しました。
末松は『源氏物語』を初めて英訳した人物でもあります。
自宅書庫を歩くと大体の本は揃っている。「源氏物語」を最初に英訳したのが末松謙澄。本書は1886年に出版され、末松が邦訳出版していたはず。ちなみにアンダーソンはThe Japan Societyの発起人の一人で、彼のコレクションが大英博物館の日本コレクションの基礎になっています。 pic.twitter.com/ibn51u8e24
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また養子の伊藤博邦は、長州藩士の井上光遠の息子でしたが、3歳から伊藤家で育っています。
養父である博文の死後に、公爵を踏爵し、貴族院の公爵議員となりました。
彼の息子で、博文の孫にあたるのが伊藤博精で、同じく父の死後に公爵議員となります。
庶子で長男の伊藤文吉は、貴族院の男爵議員でした。
また庶子で次男の伊藤眞一は、満鉄大阪事務所長を務めました。
眞一の息子で、博文の孫にあたる伊藤満洲雄は、博文の暗殺現場に居合わせています。
満洲雄によると、撃たれた博文は、秘書官の森槐南も負傷したことを知り「森もやられたか」と最後の言葉を発したそうです。
また博文の曾孫である田付美代子さんは、田付景一デンマーク大使と結婚。
玄孫の藤﨑一郎さんは、外務審議官を経て、駐アメリカ大使を務めます。
同じく玄孫の松本剛明さんは、外務大臣と衆議院議員となりました。
また財務省の寺内肇官房参事官の妻となった寺内令子さんも、博文の玄孫です。
やはり初代内閣総理大臣である博文の子孫は、いずれも政治や外交関係の人物が多いとわかりましたね。
伊藤博文の生家
博文が生まれた農家は、熊毛郡束荷村(現在の山口県光市)にありました。
生家は茅葺きの小さな家だったそうで、1991年に復元。
そして産湯に使ったといわれる井戸と共に、光市の「伊藤公記念公園」で保存されました。
伊藤博文公の生家。資料館はなかなか見ごたえありました。幕末維新、うーん興味深い!#伊藤公記念館 pic.twitter.com/YW4ju1f0kL
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伊藤博文の生家と、産湯の井戸。 pic.twitter.com/Z9Nshlqkv6
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また博文が伊藤家の養子となった際に入家した家も、萩市で保存されています。
木造茅葺きの平屋建てで、生家よりは立派に見えるものの、およそ29坪ほどのこじんまりした家です。
個人的なお気に入りは伊藤博文の家の襖の引き手。めちゃくちゃお洒落ですよね♪
また、旧宅と別宅(東京から移したもの)が並んでいて、元々下級武士の養子だった(3枚目)のがこんなに立派な二階建ての家に住む総理大臣に…という差がハッキリ出ていてその間の歴史を感じるものがありました…。 pic.twitter.com/Px8SN8942Z— ひかるん☆*゚»古屋ひかる (@Hi_briller) September 23, 2016
博文は、1868年(明治元年)に兵庫県知事となるまで、この家で過ごしました。
明治の偉人を育てたのは、小さな茅葺きの家だったのです。
伊藤博文の邸宅
山口県光市の「伊藤公記念公園」内には、立派な洋風の伊藤邸も保存されています。
【旧伊藤博文邸の内部①】
拝観はフリー!
完全に出入り自由です^_^少し悪いことしてるような気分になりながら、恐る恐る扉を開き内部に侵入すると、まずは中央ホールで伊藤博文がお出迎え✨
伊藤家の家紋というフジの装飾が施された中央階段の柱も立派です❗️ pic.twitter.com/ISqmqLdwRj
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さらに博文は神奈川県横浜市の金沢区にも、邸宅を所有していました。
「旧伊藤博文金沢別邸」は1898年(明治31年)に建てられた別荘です。
旧伊藤博文金沢別邸 pic.twitter.com/vsPN4UxB8y
— Japantravelbug (@japantravelbug) July 21, 2019
金沢区は、風光明媚な土地で、博文のお気に入りでした。
2006年には横浜指定有形文化財に指定されたものの、老朽化がひどかったため、翌年に解体。
創建当時の姿へ復元し、2009年に庭園と共に竣工します。
博文関係の資料やゆかりの品々と共に、花々が咲き誇る庭から海の眺めを楽しめる資料館です。
また伊藤は神奈川県の大磯町にも邸宅「滄浪閣」を所有していました。
小田原の旧町名、十字町の小径の傍らにその場所はあります。初代総理大臣伊藤博文が別邸(滄浪閣)を構えた地です。現在は伊藤博文公の胸像がありますが管理もされず史蹟としても扱われず放置されています。小田原城の総構えの土塁の上に立っていますが知る人がほとんど無く寂しい限りです。 pic.twitter.com/yYLr79CdQF
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さらに三菱財閥を創業した岩崎家の別邸「開東閣」は、東京都品川区にありますが、元々は博文の所有地だったそうです。
都心の一等地も所有しながら、おそらく実際に休日を過ごしていたのは、自然の多い神奈川県だったのでしょう。
都心から近い上に、自然豊かな神奈川県は、彼の憩いの土地だったのかもしれません。
伊藤家の家紋
伊藤家の家紋は、「上がり藤紋」です。
伊藤博文公墓所
「上がり藤」が伊藤家の家紋
水盤は明治43年に奉納 pic.twitter.com/sJ90yBsZpX— 伊達JKN@神社紀行ネット (@Jinja_Kikou_Net) November 11, 2017
博文の父・林十蔵が、伊藤家の養子となり「伊藤」姓を名乗った時から、この家紋を使用しています。
元々は「下り藤」の家紋が主流だったものの、「花が下がる」のは縁起が悪いため、「上がり藤」が誕生したとのこと。
萩市にある博文邸の石灯籠には、皇室の「菊御紋」と「上がり藤紋」が重なり合うように半分ずつ刻まれています。
伊藤博文旧宅内の庭にある石灯籠
皇室の菊の御紋と伊藤家の家紋が重なり合っているのが分かります。明治帝が伊藤博文を特別に思っていた証らしいです。 pic.twitter.com/Sp1sk1HYeO— やめます (@nari07copen07) March 16, 2016
明治天皇が博文を重宝していたことがうかがえますね。
政治や外交で高い手腕を発揮した伊藤博文。
彼の足跡は全国各地に残っており、今後も圧倒的な存在感を放つ偉人であり続けるでしょう。
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