伊藤博文の生涯。イギリス留学と松下村塾の活動。韓国ハルビンでの暗殺

初の内閣総理大臣として知られる伊藤博文(いとう ひろぶみ)。

総理になってからの業績は歴史の授業で習いますが、無名時代はどのように活動していたのでしょう。

今回は博文の生涯をまとめつつ、イギリス留学、松下村塾での活動に迫ります。

また韓国ハルビンでの暗殺の詳細を確認します。

伊藤博文のプロフィール

本名:伊藤利助

生年月日:1841年10月16日(天保12年9月2日)

死没:1909年10月26日

身長:154cm

出身地:周防国熊毛郡束荷村(現在の山口県光市)

最終学歴:松下村塾

伊藤博文の生涯

偉人のイメージがある博文ですが、具体的にどのような生涯を送ったのでしょうか。

博文は今の山口県にあたる周防国で、貧しい百姓の子として生まれました。

父の林十蔵が破産してからは、一家で萩市の足軽「伊藤家」の養子となります。


博文も足軽となり、15歳で浦賀の警備に就任。

翌年に長州へ戻り、吉田松陰の私塾「松下村塾」に入りました。

18歳で、桂小五郎の従者として江戸へ行き、桂や高杉晋作らと尊王攘夷運動に参加。

反対派の重鎮たちを暗殺し、たくましい志士として活動しました。

のちの総理大臣も若い頃は、かなり血気盛んな人物だったのです。

22歳でイギリス留学を経て、外国の発展状況を知り、「日本が外国相手に戦っても勝ち目はない」と悟ります。

そんな中で故郷の長州藩が、外国船を砲撃したと知り、和平に尽力しようと帰国。

しかし、イギリスやアメリカらの四国連合艦隊が下関を攻撃し、長州藩は敗れるのです。

その後、講和の際に伊藤は通訳として貢献しています。

明治新政府が樹立してからは英語力を活かし、外国事務掛に着任。

1871年(明治4年)、30歳で岩倉使節団の副使となり、欧米諸国へ視察に赴いています。

その後はドイツの憲法を研究し、ドイツの制度にならった憲法草案を作るのです。

1885年(明治18年)、初代内閣総理大臣になると、三か月で憲法草案を作ります。

明治天皇も加えた枢密院での審議を経て、初の近代憲法である「明治憲法」を制定しました。

君主制の強い憲法でしたが、博文は「あくまで民権を保護する」と強調しつつ仕上げるのです。

彼は日本における、近代国家にふさわしい諸制度を整えた人物といえますね。

イギリス留学について

伊藤は22歳の時、長州藩の留学生として、井上馨らと共にイギリス留学を果たしています。

ユニバーシティ・カレッジでは授業を英語で受講、教授のもとでホームステイも経験。

結果的に数か月で日常会話をマスターし、英文で手紙を書けるようにもなりました。

先述した連合艦隊と長州藩の講和では、高杉晋作の通訳を務め、幕府へ賠償金の支払いをさせるよう説得に成功。

「彦島の租借」など都合の悪い要求については、見事にあいまいなままで終わらせ、窮地を乗り切りました。

講和成立は高杉の業績とはいえ、英語が堪能な博文の存在なくしては不可能だったでしょう。

1871年(明治4年)12月14日にはサンフランシスコで、岩倉使節団歓迎の晩餐会が開催されました。


使節団の副使だった博文は、およそ300人の聴衆の前で、英語のスピーチを行います。

日本を文明国へ発展させる決意を述べた博文。

スピーチを聴いたイギリス公使館のフランシス・アダムスは彼の英語について、「非常に流暢だった」と語りました。

イギリス留学を果たした博文は、明治時代には珍しく、英語の発音や抑揚も完璧なバイリンガルだったのでしょう。

松下村塾での活動

博文はイギリス留学以前にも、松下村塾を出たばかりの頃、すでに英語を勉強していました。

1857年(安政4年)、吉田松陰の松下村塾へ入った際は、身分が低く敷居をまたげなかったそうです。

そのため戸外で立ったまま、懸命に授業を聴いていました。

翌年に松陰は、京都派遣の随行員に博文を抜擢。

したがって博文が松下村塾で学んだのは、わずか1年ほどでした。

その後は、長崎にある長州藩邸へ移り、英語の勉強を開始。

長崎の街を、英語の本を携えて歩きつつ、外国人を見つけると下手な英語で話しかけました。

どんなに下手な英語でも、積極的に話し、日常的に使うことは英語学習の近道です。

博文の高い英語力の土台は、松下村塾で培った向学心と、長州で実践した英会話だったのでしょう。

韓国ハルビンでの暗殺

最後に、博文が韓国ハルビンで暗殺された際の詳細を確認します。

1905年(明治38年)、日本は日露戦争に勝利し、韓国と第二次日韓協約を締結。

日本政府の代表者「統監」を韓国へ置くことが決まり、博文が初代統監として赴任します。

日本は韓国における外交権を手にするのです。

2年後には第三次日韓協約を結び、日本は韓国の内政にも権限を発揮するようになりました。


1909年(明治42年)、博文は韓国統監を退き、帰国して枢密院議長になりました。

そして韓国併合のため、ロシアに了解を得ようと会見スケジュールを設定するのです。

同年10月18日に大連へ到着、旅順から長春へ漫遊ののち、10月26日の午前9時にハルビンに到着。

ハルビン駅に降り立ち、ロシアのココフツェフ大蔵大臣から出迎えられ、各国領事と挨拶を交わしました。

挨拶を終えた瞬間、参列者の中から出てきた男が、7連発の拳銃を発射します。

うち3発が博文に命中。

博文は「3発あたった。誰が相手だ」と叫んだとされています。

犯人である韓国の独立運動家・安重根は、その場でロシア官憲により捕まりました。

博文は絶命までの30分で、犯人が韓国人であることを知り、「俺を撃つなんてバカな奴だ」と言ったそうです。

秘書官の森槐南が負傷したことを知ると、「森もやられたか」と発言しますが、これが最後の言葉だったといわれています。

そしてブランデーをふた口飲み、30分後に絶命しました。

11月4日には日比谷公園で国葬が営まれます。

そして暗殺からわずか10か月後、韓国は併合されました。

暗殺犯の安重根は、韓国併合を阻止しようとした結果、逆に併合の時期を早めてしまったのです。

博文の「バカな奴」という言葉は、もしかしたらその結果を見越したことによる発言だったのかもしれません


華々しい生涯を送った博文ですが、最期は悲劇的なものでした。

しかしだからこそ、今なお彼の強烈な生涯は、多くの人に注目され続けているのかもしれません。

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