小林多喜二の母セキ、生涯愛したタキ。志賀直哉との関係。弟と子供について

『蟹工船』を執筆したプロレタリア作家で、共産主義思想の持ち主として虐殺された小林多喜二(こばやし たきじ)。

彼の母セキは、拷問死した息子の遺体を抱きしめ、「もう1度立たねか」と叫んだそうです。

今回は多喜二の母セキがどのような生涯を送ったかに迫ります。

また多喜二が生涯愛した女性タキさんのこと、作家志賀直哉との関係を見ていきつつ、弟と子供について確認します。

小林多喜二のプロフィール


本名:小林多喜二

生年月日:1903年12月1日

死没:1933年2月20日

身長:154cm

出身地:秋田県大館市、北海道小樽市

最終学歴:小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)

小林多喜二の母セキについて

まず多喜二の母セキについて見ていきます。

セキは1873年に貧しい農家に生まれ、15歳で結婚、6人の子供を育てました。

次男の多喜二は今の小樽商科大学を卒業後、銀行員として家系を支えながら、文学活動に励みます。

搾取される労働者の姿を描いた作品や共産主義思想は、軍国主義の時代に問題視され、警察からマークされました。

1933年2月20日、特高警察に逮捕され、当日中に拷問死。

翌日に杉並の自宅へ遺体が戻ると、セキは息子を抱きしめて悲嘆に暮れました。

多喜二の死までは有名なエピソードですが、愛する息子を失ったセキは、その後どのような人生を歩んだのでしょうか。

セキの生涯は、三浦綾子さんの代表作『母』に描かれています。

小説ではセキが多喜二とキリストの死を重ね合わせ、キリスト教に感化されていく様子がつづられました。

2017年には『母 小林多喜二の母の物語』として映画化され、寺島しのぶさんがセキを演じています。

実際のセキもキリスト教徒で、1961年に87歳で亡くなる前年には、多喜二と同じ共産党に入党しています。

ただ彼女は、キリスト教や共産党の思想そのものに感化されただけではないでしょう。

惨たらしい最期を迎えた息子と同じ道を辿ることで、彼の気配を感じ続けたかったに違いありません。

命をかけて信念を貫いた息子を、セキは最後まで誇らしく思い、愛し続けていたのでしょう。

小林多喜二が愛した女性タキ

多喜二が生涯愛した女性がいました。

小樽の小料理屋「やまき屋」の酌婦だった、田口タキさんです。

多喜二は彼女に23通のラブレターを送っています。

タキさんを「僕のスウィートハート」と呼び、恵まれない境遇の彼女を救い出そうと努力しました。

彼女の父は、事業に失敗したのち鉄道自殺を遂げています。

まだ16歳だったタキさんは、室蘭の酒屋から小樽の小料理屋に転売され、必死に働いて一家を支えていました。
 
1924年に彼女と出会った多喜二は恋に落ち、今の価値で200万円の借金をして、彼女を救い出します。

しばらく同棲した2人ですが、タキさんは翌年、自活するため家出しました。

一家の長女として、兄妹を養う必要があったのです。

多喜二は小樽中を探し回り、病院で働く彼女を発見。

しかし彼女は多喜二の負担になることを拒み、二度と戻らなかったそうです。


多喜二は彼女への思いを振り切るためか、以降はひたすらプロレタリア作家として活動し続け、非合法の共産党に入党。

勤め先の銀行を解雇されたのち、1930年に上京しました。

タキさんも、洋髪技術を勉強するため上京し、2人は東京で再会。

中野で同居し、多喜二はついにプロポーズします。

しかしタキさんは、「あなたに救ってもらっただけで十分。これ以上は重荷になれない」と拒否。

結果的に2人は数週間を共に過ごしたのち、別れを告げたのです。

1933年、多喜二は亡くなる1か月前にタキさんを訪れたものの、あいにく留守で会えませんでした。

置手紙を残して帰りますが、これが最後の手紙となります。

タキさんが次に対面した彼は、おそろしい拷問の跡がついた遺体となっていました。

共産主義者の葬儀に出るだけでも検挙されかねない状況下、彼女は葬儀に参列しています。

その後タキさんは事業家と結婚し、2009年に101歳で亡くなりました。

多喜二への思いを心に秘めながら、天寿を全うしたのでしょう。

小林多喜二と志賀直哉の関係

多喜二は白樺派の有名作家である志賀直哉を尊敬していました。

学生時代から志賀に何度も手紙を送り、「北海道育ちの自分が日本文学を変えてみせる」と怪気炎を上げていました。

さらに作家となってからも、『蟹工船』に対する評価を聞かせて欲しいと連絡しています。

ただ志賀はプロレタリア文学には懐疑的だったため、多喜二の共産主義思想が色濃い作品を称賛しませんでした。

1931年11月、ついに多喜二は上高畑に志賀を直接訪れます。

志賀と彼の息子、多喜二の3人は遊園地で遊び、一晩共に過ごしたそうです。

思想こそ異なっていたものの、志賀は明るい多喜二の性格に好感を抱きました。

憧れの作家と共に過ごした1日は、多喜二にとってかけがえのない思い出となったでしょう。

志賀は多喜二の拷問死について、「暗澹たる気持ちになった」と述べ、香典5円と弔文を送ります。

1人のプロレタリア作家の死は、日本を代表する文豪の心にも暗い影を落としたのです。

弟はバイオリンのプロ奏者

多喜二には6歳年下の弟、小林三吾さんがいました。

三吾さんは兄のすすめでバイオリンを習い始め、プロの奏者となります。

多喜二は優しい兄で、弟がプロのバイオリニストになれるよう願い、初任給でバイオリンを買ってあげたそうです。

三吾さんは兄の悲惨な最期について「あまりに切ない」という理由で、どうしても兄に関する資料を読めませんでした。

そんな彼が、兄の作品と接点を持つ機会が訪れます。

1953年、山村聡監督の映画『蟹工船』で、テーマ曲を演奏することになったのです。

映画の音楽は翌年公開された『ゴジラ』のテーマ曲で知られる伊福部昭さんが担当。

『蟹工船』で音楽を演奏したのは東京交響楽団で、三吾さんはセカンド・バイオリンでした。

伊福部さんは、いきなりセカンド・バイオリン奏者から「私は多喜二の弟です」と名乗られ、衝撃を受けたそうです。

兄が原作の映画で、弟が音楽を演奏するというドラマチックな状況。

三吾さん、伊福部さん共に、一音一音に多喜二への思いを込めながら演奏したのでしょう。

小林多喜二の子供

多喜二には子供がいませんでした。

ただし姉チマさん、妹ツギさんと幸さん、弟の三吾さんがいるため、彼らの子孫が今でも続いているはずです。

一般の方々のため情報はありませんが、小林家の人々はきっと、多喜二の真っ直ぐな精神を受け継いでいるのでしょう。


多喜二が虐殺されてから、2023年で90年が経ちます。

彼の死と家族の悲しみに思いを馳せれば、悲劇の風化を防ぐ第一歩となるでしょう。

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