小林多喜二、死因と遺体の謎。最期とは。心霊写真の真偽&特高による拷問は?

『蟹工船』で有名なプロレタリア文学の作家である小林多喜二(こばやし たきじ)。

共産主義思想の持主だった彼は、1933年に逮捕された直後に亡くなりました。

今回は多喜二の死因、遺体、最期の詳細に迫りつつ、彼の遺体を写した写真が心霊写真という情報を見ていきます。

また特高による拷問があったか確認します。

小林多喜二のプロフィール


本名:小林多喜二

生年月日:1903年12月1日

死没:1933年2月20日

身長:154cm

出身地:秋田県大館市、北海道小樽市

最終学歴:小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)

小林多喜二、死因の謎

まず多喜二の死因について見ていきます。

1933年2月20日、多喜二は特高警察に逮捕され、築地警察署内で取り調べを受けます。

彼は当日中に死亡し、翌日に警察当局は、「心臓麻痺によって死亡」と発表しました。

警察側は多喜二が逮捕される直前に逃げ回ったため、疲労によって心臓麻痺を起こしたと主張したのです。

しかし警察側の主張には不自然な点が多く、遺族は警察を告訴しようとしました。

弁護団は3つの病院に、多喜二の遺体解剖を依頼します。

ところが警察からの圧力を恐れたのか、いずれの病院も解剖を拒否。

結果的に告訴はできず、多喜二の死因は心臓麻痺ということになったのです。

遺体からうかがえる最期

1933年2月20日、築地署裏の前田病院で死亡が確認された多喜二。

遺体は翌21日に、杉並の自宅へ運ばれます。

母セキは彼の遺体に取りすがって慟哭しました。

また作家や文化人など大勢の仲間が詰めかけ、彼の遺体を囲みます。

仲間たちはいずれも、「心臓麻痺」という警察側の発表した死因を信じていませんでした。

その場で安田徳太郎博士による、遺体の検診が行われます。

彼の遺体には無数のあざ、首を締められた痕跡、釘で刺された跡が残っていました。

下半身は内出血により、丸太のように腫れあがっていたといいます。

彼が拷問を受けた末に亡くなったことは、誰の目から見ても明らかでした。

小林多喜二の遺体写真は心霊写真?

多喜二の遺体を仲間が囲む写真が残っていますが、心霊写真だと感じた人が多いようです。

ただし「オカルトが好き」などの軽い気持ちで見るには、あまりに重い事実を写し出した写真のため注意が必要でしょう。

写真は、多喜二の亡骸を沈痛な面持ちで見守る仲間たちを写し出しています。

俳優で演出家の千田是也や、『カムイ伝』の作者白土三平の父岡本唐貴の姿もありました。


彼らはこの場で、多喜二のデスマスクを製作します。

さらにもっとも手前に写っている女性は、プロレタリア作家中野重治の妻で女優の原泉さんです。

遺体写真を心霊写真と感じた人がいるのは、左側後列の障子付近に、人が透けて写っていたためです。

しかしこれは心霊写真ではありません。

当時の写真技術では、被写体が透けて写ることがよくあったといいます。

屋内でストロボ撮影した結果、ほんの少し動いただけでも、透けて写ってしまうのです。

ただあまりに衝撃的な写真だからこそ、「怖い写真」と身構えることで、余計に心霊写真らしく思えてしまうのでしょう。

特高による拷問はあったか

多喜二は特高警察の拷問によって亡くなったというのが、今の定説です。

特高側は「心臓麻痺」と発表したものの、遺体の状況から見ても、拷問があったことは明らかでしょう。

ただし現代でも、思想が右派か左派かによって、事実関係に対する認識は異なる可能性が高いです。

右派であれば、多喜二は拷問されたものの、直接的な死因は心臓麻痺と考える人もいるでしょう。

左派の場合は、多喜二の死因は拷問死と強く主張し、当時の特高警察の罪を追及し続けるかもしれません。

いずれにせよ特高による拷問は、確実に行われました。

重要なのは、かつて日本で拷問が実行されたという事実を風化させず、同じ過ちを繰り返さないことでしょう。


思想の違いに縛られず、互いの主張を尊重し合い、議論を深められる社会を創り上げること。

多喜二の魂に報いるには、現代人1人ひとりが、より寛容な世界を目指していくしかないのかもしれません。

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