菊池寛のエピソード集。競馬・麻雀・将棋好き。死因の狭心症、子孫について

『真珠夫人』で有名な小説家であると同時に、「文藝春秋」を創設した実業家でもある菊池寛(きくち かん)。

芥川賞と直木賞を創設するなど、活動は多岐にわたりました。

今回は菊池の人柄がうかがえる有名エピソードを見ていきましょう。

また趣味について、競馬、麻雀、将棋に焦点を当ててご紹介します。

併せて死因が狭心症という情報、子孫について確認します。

菊池寛のプロフィール


本名:菊池寛(きくち ひろし)

生年月日:1888年12月26日

死没:1948年3月6日

身長:不明

出身地:香川県高松市

最終学歴:京都帝国大学英文科(現在の京都大学)

菊池寛の有名エピソード

菊池はギャンブルや夜遊びが好きで、破天荒なエピソードに事欠かない人物でした。

有名エピソードの1つに、「中央公論社襲撃事件」があります。

銀座のカフェー・タイガーをひいきにしていた菊池は、毎晩店に顔を出し、女給たちへチップをはずんでいたそうです。

そんな中、広津和郎の小説『女給』が「婦人公論」に掲載。

作中には、銀座のカフェーで巨漢の大御所作家が女給の小夜子を口説く下りがあります。

巨漢の大御所作家が菊池であることは、誰が読んでも明らかでした。

菊池は自分が愚鈍な男として描かれた作品に激怒し、中央公論社へ抗議文を送ります。

すると抗議文が「僕と小夜子の関係」というタイトルで雑誌に掲載されてしまうのです。

菊池はついに中央公論社へ乗り込み、編集長を殴った結果、周囲の人々に取り押さえられました。

皮肉にも事件によって『女給』は大ヒットし、映画化までされてしまいます。

菊池の激情しやすい性格がうかがえるエピソードですね。

競馬マニアで一流の馬主

ここから菊池の趣味について、まずは競馬から見ていきます。

菊池は『我が馬券哲学』を執筆するほどの競馬マニアで、一流の馬主でもありました。

同書の中で、1926年から「競馬ファンとして精勤している」と述べています。

当時すでに文藝春秋社を創立し、実業家として財を成していたため、競馬に打ち込むほどの余裕があったのです。

3年後には「カナヤマシ」名義で競走馬を所有し、馬主となりました。

1940年5月19日、菊池所有の「トキノチカラ」が春の帝室御賞典(現在の天皇賞)で優勝。

菊池は作家、実業家にとどまらず、大御所馬主として競馬界にも君臨することになったのです。

麻雀にも熱

菊池は競馬のみならず、麻雀にも熱を上げていました。

麻雀は大正時代から文人たちの間で愛されており、菊池の他に久米正雄や里見弴も熱中していたそうです。

菊池は1929年設立の「日本麻雀連盟」で、初代総裁を務めるほどの愛好家でした。

彼が社長だった文藝春秋社は、初の国産牌「文藝春秋牌」を製造販売し、麻雀の国内普及に貢献。

日本で麻雀文化が広まったのは、菊池による影響が大きかったのです。

ただし大敗を喫すると機嫌が悪くなり、黙り込んでしまったといいます。

そのため彼は周囲の人々から、「くちきかん」と呼ばれていました。

麻雀文化普及に貢献した大物の、人間臭い一面がうかがえるエピソードですね。

将棋はとにかく愉快

菊池を語る上でもう1つ欠かせない競技が、将棋です。

「将棋はとにかく愉快である」で始まる随筆『将棋』では、将棋の極意と上達法をつづっています。

将棋上達のコツは、自分より二枚強い人と対戦し、とにかく盤数をこなすことだそうです。

自分より強い人と対戦するうちに、段々と自分の実力が磨かれていくのがわかり、「非常に愉快」と語っています。

将棋に限らずアマチュア競技では、何より楽しむことが重要です。

少しずつ腕を上げていき、「愉快」と感じられれば理想的だと菊池は伝えたかったのでしょう。

菊池寛の死因は狭心症

1948年1月、文藝春秋社の鈴木氏亨専務が亡くなったことで、菊池は気力が弱っていました。

その後、新橋駅付近のレストランで食べたビフテキや豚カツがおいしく、気力を回復。

料理を気に入った菊池は、何と3日連続で同じレストランに通い、大いに食事を楽しみました。

結果的に胃腸を壊してしまい、数日間は嘔吐が続いてひどく衰弱します。

2週間ほど経つと、ようやく食事をとれるようになりました。

3月6日、友人や主治医を自宅に集め全快祝いを開催し、寿司を食べました。


しかし2階へ上がった途端、狭心症を起こし倒れ、「英樹」と息子を読んだのを最後に急死。

招待されていた主治医が応急手当したものの、わずか数分で息を引き取ったのです。

気力が弱っていたとはいえ、誰も予想できなかった突然の死でした。

音羽の護国寺で営まれた葬儀には7千人が集まり、当時の芦田均首相も参列します。

急死だったとはいえ、菊池本人は万一に備えて遺書を残していました。

家族は発見した遺書を、葬儀の当日に公表。

幸福な人生だったことと、周囲の人々や読者に感謝を表明した上で、「ただ国家の隆昌を祈るのみ」と結んでいました。

菊池は文藝春秋社の戦争加担を追及され、GHQによって公職追放されています。

公職を追われ、気力が衰えていた彼が、心底「国家の隆昌」を祈っていたかは不明。

ただし支えてくれた家族や知人が、末永く幸福に暮らせる国になるよう願っていたことは確かでしょう。

菊池寛の子孫は?

菊池が最後に名前を読んだ息子の菊池英樹さんは、「菊池寛記念館」で名誉館長を務めました。

また孫の菊池夏樹さんは、祖父が創立した文藝春秋社の編集者として活躍。

2023年現在もご健在で、講演活動や座談会、著述業を通して、祖父の功績を後世に伝え続けています。

また菊池には正妻の包子以外に、愛人が多数いました。

「小森のおばちゃま」として知られた、映画評論家でタレントの小森和子さんも愛人だったそうです。

つまり愛人との間にも子孫を作っていた可能性があるため、各地に菊池の子孫が生きている可能性もあるでしょう。


豪放磊落で破天荒な生き方を貫いた菊池寛。

文学とビジネスにおいて大きな成功を収めた彼の生き方は、実業家を目指す人々の指標となり続けるでしょう。

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