有島武郎の遺体。軽井沢で自死。遺書と失楽園、与謝野晶子との関係

白樺派の中心人物として名声を博すなかで、突然人妻との情死をとげた有島武郎(ありしまたけお)。

最期の地に選んだ軽井沢の別荘や遺体発見時のようす、遺書の内容についてみていきます。

また、この心中事件をモチーフにして書かれた『失楽園』や、歌人・与謝野晶子との関係にも迫ります。

遺体発見時は死後1か月が経過

東北帝国大学農科大学(現・北海道大学)の教壇に立ちながら、雑誌『白樺』に小説を発表していた有島武郎。

本格的に文学に打ち込むようになったのは、1916年(大正5年)に訪れた二人の身内との別れがきっかけでした。


この年、妻・安子が肺結核により27歳で死去、父・武も胃がんにより他界。

教職を辞した武郎は、『カインの末裔』『生れ出づる悩み』などの名作を立て続けに発表します。

三人の幼子を抱えて独身を貫く潔癖なイメージもあいまって、女性たちの支持も絶大。

ところが『或る女』を頂点として創作力が徐々に衰え、『星座』の執筆途中で筆を絶ってしまいます。

そして1923年(大正12年)6月9日、武郎は軽井沢の別荘で波多野秋子と縊死(いし)心中をとげました。

縊死とは、俗にいう首吊り自殺のこと。

別荘の管理人が二人を発見したのは、およそ1か月が過ぎた7月7日のことでした。

季節は夏、しかも梅雨時とあって遺体は腐乱が進んでおり、遺書の内容からようやく本人と特定できたそうです。

この醜聞は世間に大きな衝撃を与えます。

波多野秋子は『婦人公論』の編集者でした。

二人の恋愛関係は、やがて秋子の夫で実業家の波多野春房の知るところとなります。

春房は武郎を呼び出して金銭の取り引きを迫りますが、武郎は愛を金銭に換えることはできないと拒否。


ならば警察に突き出すと春房はたたみかけます。

不貞を働いた者には姦通罪という厳しい制裁が与えられた時代。

二人の関係が表沙汰になれば、クリスチャンとして貞節と潔癖を重んじてきた武郎の名声も地に落ちることは明らかでした。

しかし、この恐喝にも「よろしい、警察に行こう」と動じない武郎に春房はたじろぎ、話し合いは平行線に。

秋子と出会って7か月後の6月8日、二人は消息を絶ちます。

そして、翌朝の未明に縊死による心中をとげました。

最期の場所に選んだのは、軽井沢の別荘・浄月庵。

武郎は45歳、関東大震災がおこる3か月前のことです。

情死の現場となった軽井沢の浄月庵

自殺現場である浄月庵は、かつて軽井沢の旧三笠ホテルの近くにあった有島家の別荘です。

この別荘の1階応接間で二人は命を絶ちました。

旧三笠ホテルの経営者・山本直良の妻の愛は武郎の妹にあたります。

浄月庵は父・武が大正初期に建てた別荘で、父の没後に譲り受けたもの。

夏になると家族と避暑に訪れた場所でした。

代表作のひとつである『生れ出づる悩み』はここで書きあげています。

2023年現在、別荘は軽井沢タリアセンにある軽井沢高原文庫に移築されており、三笠の跡地には「有島武郎終焉地」の碑があります。

軽井沢高原文庫の浄月庵は、1階が作品から店名をとった茶房「一房の葡萄」、2階は記念館として展示品を公開。

有島武郎が遺した遺書の内容と『失楽園』

死後1か月が経過した遺体の状態は、遺書に記された言葉のとおりになりました。

有島武郎は、自分たちは腐乱した姿で発見されるだろうと書き残しています。

武郎は複数の遺書と辞世の歌を遺しており、そのなかには秋子の夫・波多野春房に宛てたものもありました。

そこには、自分たちは運命に従っただけであること、また現世で償わずに去ることへの許しを請う内容がつづられています。

友人の足助素一(あすけそいち)宛ての遺書には、後悔はなく満足としながらも、あとに残す子供たちを憂う気持ちが表れています。

「最後のいとなみ」「愛の絶頂に於ける死」といった言葉からは、この世では添い遂げることのできない男女の恋情が伝わります。

この有島武郎の心中事件をモチーフにして書かれたのが渡辺淳一の『失楽園』。

映画版やドラマ版も話題を呼び、「失楽園」という言葉が流行語にもなりました。


実際の事件が起きた時期は夏でしたが、『失楽園』での道行は冬。

雪の季節を選んだのは、医学博士でもある著者が主人公の死を美しく描いてあげたかったからかもしれません。

与謝野晶子には恋愛感情があった?

学生時代には、時の皇太子(のちの大正天皇)の御学友にも選ばれるほど品行方正な優等生だった有島武郎。

端正な容貌の売れっ子作家であるうえに、安子夫人と死別後は独身を通していたこともあって女性に人気が高かったようです。

歌人の与謝野晶子には、「光源氏のようですね」と冗談を言われたこともあったそう。

さきほど少し触れましたが、武郎の妹の愛は旧三笠ホテル創業者・山本直良に嫁いでおり、その息子・直正の妻は与謝野鉄幹・晶子夫妻の次女の七瀬。

このことから、有島武郎と与謝野晶子は親戚筋にあたります。

晶子は武郎の弟で画家の生馬に絵を習っていた時期があり、この縁で武郎と親しくなって、手紙を交わすようになったとのこと。

武郎と晶子の交流は、与謝野夫妻が創立した文化学院の講師に武郎を招いたことからも深まっていったのでしょう。

二人の間には恋愛感情があったという推定のもとに書かれた小説が永畑道子の『夢のかけ橋』。

これを原作とした映画『華の乱』では、有島武郎に松田優作さん、波多野秋子に池上季実子さん、主人公の与謝野晶子に吉永小百合さんが扮しています。

1923年(大正12年)6月9日の武郎の逝去に際して、「君亡くて 悲しと云ふを すこし超え 苦しといはば 人怪しまむ」と晶子は追悼の歌を詠みました。


有島武郎が一度は不倫関係を清算しようとしていたことは波多野秋子と交わした書簡からも明らかです。

もう少し長く存命していたら、どのような作品を残していたのか、それを考えると残念です。

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