有島武郎の子供と家系図、親子関係とは。北海道の旧邸は移築復元

大正期の文学界に『カインの末裔』『或る女』などの名作を残した小説家の有島武郎(ありしまたけお)。

情死という形で生涯を閉じたあとに残されたのは、まだ幼い子供たちでした。

今回は一族の家系図の親子関係を整理しながら、ゆかりの深い北海道の旧邸について取り上げます。

有島武郎のプロフィール

生年月日:1878年3月4日

没年月日:1923年6月9日(45歳没)

出身地:東京府小石川(現:東京都文京区)

最終学歴:札幌農学校(現:北海道大学農学部)

有島武郎と子供たち:複雑な親子関係の軌跡

有島武郎は、大正時代を代表する作家として知られていますが、彼の家族生活、特に子供たちとの関係は複雑で悲劇的な側面を持っていました。

ここでは、有島と彼の子供たちの関係について詳しく見ていきます。

三人の息子と母の死:家族の試練

有島武郎には三人の息子がいました。長男の行光、次男の敏行、そして三男の行三です。


彼らは当時、非常に恵まれた環境で育っていたと考えられます。

父親は人気作家であり、母親は男爵家の令嬢でした。

しかし、1916年に彼らの母親である安子が肺結核で亡くなりました。

この出来事は、家族全体に大きな影響を与えました。

三人の息子たちは、幼くして母親を失うという辛い経験をしました。

この悲しい出来事の後、有島は子供たちを励ますために「小さき者へ」という作品を書きました。

この作品は、母親を失った子供たちへの愛情と励ましの言葉が込められています。

有島は、子供たちが将来この作品を読んだ時、彼らを深く愛していた人がいたことを知ってほしいと願っていました。


彼は子供たちに、自分を乗り越えて成長してほしいと考えていました。

「小さき者へ」には、子供たちへの深い愛情と、彼らの未来への希望が表現されています。

しかし、有島の人生はさらなる悲劇を迎えることになります。

1923年、有島は愛人の波多野秋子と心中しました。

この出来事は、三人の息子たちに大きな衝撃を与えたと考えられます。

父親の自殺は、子供たちの人生に深い影響を与えたことでしょう。

有島の長男である森雅之(本名:有島行光)は、後に俳優として成功しました。

しかし、彼は父親の自殺について複雑な感情を抱いていたようです。


森は、父親の小説をあまり読んでいないと語っています。

それは、父親の作品に触れることが苦痛だったからだと考えられます。

一方で、森は有島を父親に持ったことを誇りに思うとも述べています。

このように、有島と子供たちの関係は愛情と苦悩が入り混じった複雑なものでした。

有島の生涯は、親としての責任と個人の欲求の間で揺れ動いた姿を示しています。

彼の作品「小さき者へ」は、子供たちへの深い愛情を表現していますが、その後の行動との矛盾も浮き彫りになっています。

この矛盾は、有島の人生そのものを象徴しているように思われます。

彼は子供たちを深く愛していましたが、同時に自身の感情や欲求にも忠実でありたいと考えていたのかもしれません。


有島の子供たちは、父親の名声と才能、そして悲劇的な最期という複雑な遺産を受け継ぐことになりました。

彼らは、父親の功績と挫折の両方を背負って生きていくことを余儀なくされたのです。

有島の子供たちの人生は、親の行動が子供に与える影響の大きさを示す一例と言えるでしょう。

彼らの経験は、家族の絆の強さと同時に、その脆さも浮き彫りにしています。

有島武郎と子供たちの物語は、親子関係の複雑さと、人生における選択の重さを私たちに考えさせてくれます。

それは同時に、愛情と責任、個人の欲求と家族への義務の間で揺れ動く人間の姿を映し出しているのかもしれません。

家系図の著名人の親子関係

有島武郎は現在の東京都文京区にて、大蔵官僚の有島武・幸子夫妻の5男2女の長子として誕生しました。

弟に洋画家・小説家の有島生馬、小説家の里見弴(さとみとん)がいます。

生馬は武郎とともに『白樺』創刊から関わり、『画家ポール・セザンヌ』などを発表。

美術団体の創設にも尽力して文化功労者となりました。

文化勲章受章者の里見弴は、その流麗な文体が「小説家の小さん」と称えられた文章の名人。


志賀直哉の友人にしてライバルという印象が強いですね。

里見弴は生まれてまもなく母方の山内家の養子となり、山内姓になっているため、有島武郎の実弟であることを知らない人が意外に多いかもしれません。

妹の愛は旧三笠ホテル経営者の山本直良に嫁いでおり、その三男が作曲家で指揮者の山本直忠。

直忠の長男が、同じく作曲家で指揮者の山本直純。

さらに直純の長男が、作曲家の山本純ノ介です。

こちらは音楽一家ですね。

移築復元された北海道の旧邸

東京生まれの有島武郎ですが、北海道にゆかりの深い文豪でもありました。

学習院中等科を卒業すると、武郎は農学者を志し、自由な空気を求めて札幌農学校に進学。

進路に北海道を選んだ理由はもうひとつありました。

じつは大の蛇嫌いで、北海道では蛇がほとんど出ないといわれていたからなのだそう。

札幌農学校では、教授の新渡戸稲造に好きな学科を問われて「文学と歴史」と答え、進学先の選び方を笑われたというエピソードも残っています。


ウィリアム・クラーク博士の気風に触れて、家族の猛反対を押しきってキリスト教の洗礼を受けたのも札幌農学校時代です。

農学校卒業後は海外留学を経て再び札幌に戻り、母校の教職に就くことに。

札幌永住を決意した武郎は、1913年(大正2年)、自ら設計した邸宅を新築します。

残念ながら翌年に安子夫人が病に倒れ、東京に移り住んだために、実際に暮らしたのは1年足らずでした。

以後、この建物は変遷を経て北海道大学の所有となり、職員や学生の寮として利用されることに。

その後、1983年(昭和58年)の廃寮にともなって、邸宅は「有島武郎旧邸」として札幌市南区の札幌芸術の森に移築。

緑のなかに、当時の姿そのままに復元された洋風の旧邸には、どこか大正ロマンが漂います。

館内には有島武郎関連のさまざまな資料が展示されており、カフェコーナーも常設。


キリスト教との出会いによって、自らの理想と現実のはざまで葛藤し続けていたという有島武郎。

日本近代文学の第一人者として活躍する背景に、生真面目な理想主義者の一面が見え隠れします。

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