有島武郎の子供と家系図、親子関係とは。北海道の旧邸は移築復元

大正期の文学界に『カインの末裔』『或る女』などの名作を残した小説家の有島武郎(ありしまたけお)。

情死という形で生涯を閉じたあとに残されたのは、まだ幼い子供たちでした。

今回は一族の家系図の親子関係を整理しながら、ゆかりの深い北海道の旧邸について取り上げます。

有島武郎の子供は3人の息子

1909年(明治42年)、有島武郎は陸軍大将で男爵の神尾光臣の次女、神尾安子と結婚します。

1911年(明治44年)1月13日に長男の行光、翌年には次男の敏行が誕生。

このころの武郎はまだ本格的な作家活動に入っておらず、札幌で教鞭をとりながら、創刊まもない『白樺』に作品を発表していました。


ところが安子夫人が三男・行三を出産後に体調を崩して肺結核を発症。

一家は東京に転居し、安子夫人は鎌倉の病院で入院生活を送ることになります。

1916年(大正5年)、療養むなしく安子夫人は27歳の若さで逝去。

夫が小説家として大成する願いをつづった長い遺書を遺していました。

その7年後、有島武郎は『婦人公論』の編集者・波多野秋子と縊死(いし)をとげます。

両親を亡くした時、長男の行光はまだ12歳でした。

3人兄弟は、父の弟である有島生馬らのもとで養育されることになります。

長男・行光は、のちに俳優となった森雅之。

知的でニヒルな容貌と憂いを帯びた存在感で人気を集めた、日本映画黄金期を代表する名優です。

文豪を父に持つせいか、文学作品の主役級の役どころを演じることが多く、父の小説を原作とした『或る女』でも主役級の役に扮していました。

『羅生門』をはじめ、黒澤作品に欠かせない演技派でもありました。

次男の敏行は翻訳家。

太平洋戦争中に若くして結核で他界しています。

三男の行三は母の実家である神尾家を継ぎ、男爵になりました。

家系図の著名人の親子関係

有島武郎は現在の東京都文京区にて、大蔵官僚の有島武・幸子夫妻の5男2女の長子として誕生しました。

弟に洋画家・小説家の有島生馬、小説家の里見弴(さとみとん)がいます。

生馬は武郎とともに『白樺』創刊から関わり、『画家ポール・セザンヌ』などを発表。

美術団体の創設にも尽力して文化功労者となりました。

文化勲章受章者の里見弴は、その流麗な文体が「小説家の小さん」と称えられた文章の名人。

志賀直哉の友人にしてライバルという印象が強いですね。

里見弴は生まれてまもなく母方の山内家の養子となり、山内姓になっているため、有島武郎の実弟であることを知らない人が意外に多いかもしれません。

妹の愛は旧三笠ホテル経営者の山本直良に嫁いでおり、その三男が作曲家で指揮者の山本直忠。

直忠の長男が、同じく作曲家で指揮者の山本直純。

さらに直純の長男が、作曲家の山本純ノ介です。

こちらは音楽一家ですね。

移築復元された北海道の旧邸

東京生まれの有島武郎ですが、北海道にゆかりの深い文豪でもありました。

学習院中等科を卒業すると、武郎は農学者を志し、自由な空気を求めて札幌農学校に進学。


進路に北海道を選んだ理由はもうひとつありました。

じつは大の蛇嫌いで、北海道では蛇がほとんど出ないといわれていたからなのだそう。

札幌農学校では、教授の新渡戸稲造に好きな学科を問われて「文学と歴史」と答え、進学先の選び方を笑われたというエピソードも残っています。

ウィリアム・クラーク博士の気風に触れて、家族の猛反対を押しきってキリスト教の洗礼を受けたのも札幌農学校時代です。

農学校卒業後は海外留学を経て再び札幌に戻り、母校の教職に就くことに。

札幌永住を決意した武郎は、1913年(大正2年)、自ら設計した邸宅を新築します。

残念ながら翌年に安子夫人が病に倒れ、東京に移り住んだために、実際に暮らしたのは1年足らずでした。

以後、この建物は変遷を経て北海道大学の所有となり、職員や学生の寮として利用されることに。

その後、1983年(昭和58年)の廃寮にともなって、邸宅は「有島武郎旧邸」として札幌市南区の札幌芸術の森に移築。

緑のなかに、当時の姿そのままに復元された洋風の旧邸には、どこか大正ロマンが漂います。

館内には有島武郎関連のさまざまな資料が展示されており、カフェコーナーも常設。


キリスト教との出会いによって、自らの理想と現実のはざまで葛藤し続けていたという有島武郎。

日本近代文学の第一人者として活躍する背景に、生真面目な理想主義者の一面が見え隠れします。

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