与謝野晶子、夫・鉄幹とのエピソード。山川登美子との関係。性格は情熱的?死因は病気?

歌集『みだれ髪』で一世を風靡し、ロマン派の歌人として知られた与謝野晶子(よさの あきこ)。

恋多き女性のイメージがありますが、実際はどうだったのでしょうか。

今回は晶子について、夫・鉄幹と山川登美子との関係に迫ります。

また性格と死因も併せて見ていきましょう。

与謝野晶子のプロフィール

本名:与謝野志やう(しょう)

生年月日:1878年12月7日

死没:1942年5月29日

身長:不明

出身地:大阪府堺市

最終学歴:堺市立堺女学校(現在の大阪府立泉陽高等学校)

与謝野晶子と夫・鉄幹のエピソード

与謝野鉄幹は晶子の夫であり、雑誌「明星」の創刊者としても知られていますね。

北原白秋や石川啄木など、多くの才能を発掘しました。

無名歌人の晶子を売れっ子に仕立てたのも彼で、2人は不倫関係に陥ります。


結局鉄幹は妻の滝野と別れ、晶子と再婚して六男六女をもうけるのです。

活発に創作をする妻とスランプの夫

鉄幹が1900年に創刊した『明星』は、1908年の第100号で廃刊となっています。

その後の鉄幹はすっかりスランプに陥り、思うように創作をすることができなかったのだとか。

1910年には『相聞』『檞之葉』といった作品も発表していますが、あまり人気は出なかったようです。

鉄幹の作品はどんどん売れ行きが悪くなり、精神的にもかなり追い詰められていきます。

そんな中、鉄幹は1911年にフランスのパリへ渡りました。

これは、あまりに落ち込んでいる夫を見かねて、晶子が提案したことだったそうです。

晶子としては、海外へ行くことが良い刺激となり、スランプを抜け出す助けになることを期待したのかもしれません。

環境を変えることは、確かにリフレッシュにつながりそうですよね。

しかし、鉄幹のスランプはなかなか深刻だったようです。

なんとか再起しようと『リラの花』を出版するなど、努力は続けていたようですが、不振の状態はいっこうに改善しなかったのだとか。

これには、妻である晶子の活躍も影響したという話があります。


夫を追って1912年からパリへ渡った晶子は、ロンドンやウィーン、ベルリンなども見て回りました。

その旅行が刺激になったのか、晶子の創作活動はますます勢いを増していきます。

作家として常に輝いていたわけですが、夫である鉄幹はいつまでもスランプを引きずったまま。

世間では「妻に比べて夫は」という声もあったことでしょう。

そんな状態なら、鉄幹の苦悩がさらに深まってしまうのもわかる気がしますね。

夫が教授になるまでの苦労

帰国後の鉄幹は、1919年に慶應義塾大学文学部の教授となっています。

それにより収入は安定しましたが、夫が教授になるまでの間、家計を支えていたのは晶子でした。

当時の生活は本当に苦しく、来た仕事はとにかくすべて受けないと、とても暮らしていけなかったのだとか。

それでもなお足りず、原稿料の前払いを頼むこともあったそうです。

子供がたくさんいたことを考えれば、いくら仕事をしても「まだまだ足りない」という状態だったのかもしれません。

しかし、そんな中でも即興短歌の会に参加し、5万首もの短歌を生み出していたという晶子。

作家としての創作意欲は、目まぐるしい日々の中でも常に高い状態だったようです。

山川登美子とは与謝野鉄幹をめぐる三角関係

続いて、晶子、夫の鉄幹、山川登美子の関係に迫ります。

一言でいうと、3人は三角関係にありました。

しかし女性2人は愛憎入り混じる関係というよりは、歌人としての才能を認め合いながら、互いを尊重していた印象があります。

山川登美子も、「明星」で評価された歌人でした。

3人の出会いと別れ

現在の梅花女子大学で、研究生として英語を学んでいた登美子。

「明星」の社友となり、まだ結婚していない頃の鉄幹と出会った彼女は、鉄幹を慕い始めます。


創作を通して、文学の世界へ羽ばたくチャンスを与えてくれた鉄幹は、恩人であると同時に憧れの存在だったのでしょう。

一方晶子とも親友関係となり、交友を深めました。

登美子は“白百合の君”、晶子は“白萩の君”と呼ばれ、「明星」の大スターとして扱われます。

そして2人は共に鉄幹を慕い、彼と歌のやり取りを重ねました。

鉄幹の大胆な点は、彼女たちとの恋歌のやり取りを雑誌で堂々と公表していたことです。

これは世間の耳目を集める演出でした。

鉄幹は、大胆で危険な香りのする男性だからそ魅力的だったのでしょう。

しかし登美子は実家が決めた相手と結婚することになます。

1900年の11月5日、京都の永観寺で鉄幹、晶子と3人で最後の夜を共にしました。

そして二度と2人に会えなくても、歌を詠み続けることを誓うのです。

身を切られる思いで故郷の福井に戻り、山川駐七郎と結婚します。

しかし翌年に夫と死別し、生家に戻りました。

この間に鉄幹と晶子は結婚しています。

一方登美子は教師となる決意をし上京、日本女子大学英文科に入学しました。

そして再び、「明星」で歌を詠み始めるのです。

再会が呼び覚ました歌への情熱

結婚しても相変わらず堂々と女性歌人との恋歌を続けていた鉄幹。


晶子としては不満もあったでしょうし、何より貧しい家庭で苦労したそうです。

そんな中、登美子と再会を果たします。

2人は鉄幹の発案により、「恋衣」というタイトルの歌集を連名で出版することになりました。

同歌集に収められた晶子の代表作『君死にたまふことなかれ』は、日露戦争に従軍した弟を思う詩で、反体制的と批判されます。

出版も停止となり、登美子は日本女子大学を停学となってしまうのです。

彼女はこの時、「おとなしく 母の膝よりならひ得し 心ながらの 歌といらへむ」という歌で抗議。

幼い日に母の膝で教えてもらった歌を詠んで何が悪い、という訴えです。

晶子と鉄幹に再会し、歌への情熱を再燃させた登美子。

しかし亡夫から感染したとされる結核にむしばまれ、大学を退学。

姉が嫁いだ京都の家で療養するものの、福井の父が危篤の知らせを受け、大雪の中帰郷し父を看取ります。

無理がたたったためか、登美子自身もそのまま29歳の若さで亡くなりました。

晩年に詠んだ歌に、「おつとせい 氷に眠るさいはひを 我も今知る おもしろきかな」というものがあります。

氷の上で眠るオットセイの気持ちになって詠んだ、ユーモラスな歌です。

何もかもを失った上での闘病生活中に、「おもしろきかな」と言った彼女は、もはや悟りの境地に至っていたのかもしれません。

登美子の生涯は悲劇的ですが、彼女の才能には晶子も瞠目し、感銘を受けたことでしょう。

与謝野晶子の性格は情熱的?

次に晶子の性格を見ていきます。


晶子は鉄幹との恋歌からもわかる通り、情熱的な性格だったことが想像できますね。

同時に生活力のない夫を支える技量のあった、しっかり者だったことがうかがえます。

貧しい暮らしの中で夫と12人の子供を育てるのは、情熱があるだけでは不可能でしょう。

心身が丈夫で、あらゆる病気に免疫のある人だったのではないでしょうか。

また誰かを世話して、支えること自体に生きがいを感じられる性格だったのかもしれません。

傍から見れば彼女の生き方は奔放で、好き放題に生きてきたように思えるでしょう。

しかし究極的には貧しい中でも希望を絶やさず、家族を支え続けた、前向きで献身的な人だったのでしょう。

死因に狭心症や尿毒症が影響?

最後に晶子の死因を見ていきます。

1940年5月、脳溢血により右半身が動かなくなっていたそうです。

42年1月4日、意識不明に陥ります。

5月には狭心症、さらに尿毒症を併発し、回復はいよいよ絶望的となりました。

同月の29日、杉並区荻窪の自宅で63年の生涯を終えます。

直接的な死因については不明ですが、やはり狭心症や尿毒症の影響は大きかったのかもしれません。

現在の感覚では若いですが、当時63歳となるとかなり高齢という扱いだったのでしょう。


激動の時代を熱く生き抜いた女性といえますね。

情熱的で献身的な、たぐいまれなる女性歌人だったのでしょう。

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