湯川秀樹の息子たちと家系図。兄弟、子孫について。生い立ちと地質学者の父

中間子の研究により、日本人初のノーベル賞受賞者となった湯川秀樹(ゆかわ ひでき)。

家系図を調べると、息子たちも各分野で活躍していたことがわかりました。

今回は秀樹の息子、家系図を確認し、兄弟と子孫について見ていきます。

併せて秀樹の生い立ちをまとめましょう。

湯川秀樹のプロフィール

本名:湯川秀樹

生年月日:1907年1月23日

死没:1981年9月8日

身長:不明

出身地:東京都、京都府

最終学歴:京都帝国大学理学部物理学科(現在の京都大学)

湯川秀樹の息子

まず秀樹の息子についてです。

湯川は妻・スミとの間に、2男をもうけました。

長男の春洋(はるみ)さんと、次男の高秋(たかあき)さんです。

2人は偉大な学者の父と異なり、サラリーマンとなります。

春洋さんは大阪市立大学を卒業後、平凡社に入社。

仕事の傍ら、大学で学んだ滝沢馬琴や近松門左衛門についてなど、近世演劇の研究を続けました。

1998年に退職後は研究者の活動に専念し、著作を出版。

湯川家について述べた著書『湯川家に生きた子と母』では、反核活動家として平和を追求した父の姿を描きました。

次男の高秋さんは、講談社に勤めましたが、残念ながら36歳で急逝しています。

長生きしていれば、優秀な人材として活躍していたに違いありませんね。

湯川秀樹の家系図

「湯川」は元々、秀樹の妻・スミの姓でした。

医師・湯川玄洋の次女として生まれ、大阪府立大手前高等女学校本科(現在の大阪府立大手前高等学校)を卒業。

小川秀樹を婿に迎え、湯川家を継がせています。

秀樹の父は地質学者の小川琢治(おがわ たくじ)です。

紀伊国田辺藩(現在の和歌山県田辺市)で、儒学者・浅井篤の次男として生まれます。

東京帝国大学(現在の東京大学)で地質学を学びつつ、小川小雪と結婚し、婿入りして小川姓となりました。


農商務省に任官し、「パリ万国博覧会」では、万国地質学会議に参加。

日露戦争に際しては大本営にて中国大陸の地質調査に参加し、当時は珍しい炭鉱の露天掘りを提案しています。

京都帝国大学(現在の京都大学)で理学博士号を受け、同大学教授を務めるなど、地質学研究に生涯をかけました。

秀樹の学者としての優れた才覚は、父親譲りだったのでしょう。

兄弟と子孫について

秀樹の兄弟も、多くが優秀な研究者でした。

長兄の小川芳樹(おがわ よしき)は、著名な冶金学者で、論文「亜鉛精錬の基礎的研究」により工学博士となりました。

原子力に関する知識の普及にも尽力し、1957年には、東京大学工学部で原子力講座の開設に尽力しています。

次兄の貝塚茂樹(かいづか しげき)は東洋学者として活躍。

中国古代史の研究において、文献学ではなく、甲骨文字や金文など出土資料を活用した研究手法を日本で初めて提唱しました。

文学博士号を受け、文化勲章を受章するなど、輝かしい実績を残しています。

また弟の小川環樹(おがわ たまき)も中国文学者で、啓蒙書や解説書を多数残しました。

秀樹の子孫については、一般人のようで情報はありません。

孫がいることはわかっているため、直系の子孫は続いているようです。

またバイオリニストのダイアナ湯川さん、政治家の柿澤弘治(かきざわ こうじ)さんが、遠縁にあたるとわかっています。

兄弟、子孫共に、各分野で活躍していたことがわかりましたね。

生い立ちと地質学者の父

秀樹は地質学者の父・小川琢治(おがわたくじ)と、母・小雪の三男として生まれます。

生まれたのは現在の東京都港区六本木でしたが、父が京都帝国大学の教授となったため、1歳で京都に転居。

母方の祖父・駒橘(こまきつ)は、元紀州藩の藩士で、漢学や英語が得意な知識人でした。

秀樹は幼少期から、教養ある祖父に漢学を習いました。


意味を理解できないままだったものの、祖父に続いてひたすら復唱した結果、漢字を覚えて読書が容易になったそうです。

おかげで学校でも優秀な生徒でしたが、声が小さく、目立たない存在だったといいます。

元々は誰かと会話するよりも、文献を相手に研究する方が性に合っていたのかもしれませんね。

誰からも注目されないまま、中間子の研究に没頭した末、ノーベル賞を受賞した秀樹。

大人しい変わり者タイプの優等生ほど、将来偉大な学者になる可能性が高いかもしれませんね。

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