のちに夫となる石原裕次郎さんと日活のドル箱コンビとなり、結婚後はきっぱりと引退して内助の功に徹した石原まき子(いしはらまきこ)さん。
石原プロモーションは半世紀を超える歴史に幕を下ろしたわけですが、これに先立ち、子供のいないまき子さんが養子縁組していたことが明らかになりました。
養子とはいったい誰で、2024年現在はどんな状況なのでしょう。
まき子さんにささやかれる韓国ルーツの噂も含めて、生い立ちや兄弟についてもみていきます。
石原まき子のプロフィール
本名:石原 まき子
生年月日:1933年7月23日
出身地:東京都目黒区
配偶者:石原裕次郎
石原まき子の養子縁組:芸能界の伝説を継ぐ新たな展開
石原まき子さんと養子縁組に関する話題が、近年注目を集めています。
この決断は、石原プロモーションの未来や石原家の遺産管理に大きな影響を与えると考えられます。
ここでは、石原さんの養子縁組の背景や意義について詳しく見ていきましょう。
石原まき子が選んだ後継者:甥との絆
石原まき子さんは、自身の甥である石原邦彦さんと養子縁組を結びました。
この決断には、深い意味が込められているように思われます。
邦彦さんは、もともと石原さんの弟の息子であり、血縁関係のある身内です。
養子縁組以前は別の苗字でしたが、現在は石原姓を名乗っています。
この選択には、石原家の遺産や事業を確実に引き継ぐという意図があったのではないでしょうか。
石原さんは、夫である故・石原裕次郎さんの遺志を尊重しつつ、家族の絆を大切にする姿勢を示したといえるでしょう。
邦彦さんは、石原音楽出版社の代表取締役に就任しています。
この役職は、石原プロモーションの関連会社として重要な位置づけにあります。
養子となった邦彦さんが、石原家の事業を継承する立場に就いたことは、非常に意義深いと考えられます。
石原さんは、自身の高齢化に伴い、石原プロモーションの解散を決断しました。
しかし、その一方で石原家の遺産や版権を管理する新たな体制を整えたのです。
この決断には、石原さんの先見の明が感じられます。
養子縁組によって、石原家の財産や事業の継続性が保たれることになったのではないでしょうか。
邦彦さんは、50代の独身男性であると報じられています。
彼は、東京都世田谷区で書店を経営しながら、石原さんの身の回りの世話も行っているそうです。
このような献身的な姿勢が、石原さんの信頼を得た要因の一つかもしれません。
養子縁組には、相続税の問題も関係していると考えられます。
専門家によると、養子の場合、本来の相続税分のみで済むとのことです。
一方、甥の立場では相続税額が1.2倍になるそうです。
このような税制面での利点も、養子縁組の決断に影響を与えた可能性があります。
石原さんは、かつて夫の遺産相続で多額の相続税を負担し、苦労した経験があるといわれています。
その経験から、今回の養子縁組には将来を見据えた慎重な判断があったのではないでしょうか。
邦彦さんは、石原軍団の関係者から「クニちゃん」と呼ばれ、親しまれているそうです。
このことから、彼が石原家の事業を引き継ぐ上で、周囲の支持も得られていることがうかがえます。
人望があり、真面目な性格であると評される邦彦さんは、石原家の後継者として適任だと考えられているようです。
石原さんの養子縁組は、単なる相続対策にとどまらず、石原家の遺産や事業を守り継ぐための重要な決断だったといえるでしょう。
この選択により、石原裕次郎さんが築き上げた芸能界の伝説が、新たな形で受け継がれていくことが期待されます。
養子縁組という形で家族の絆を強めつつ、事業の継続性を確保した石原さんの判断は、多くの人々に影響を与える可能性があります。
今後、邦彦さんがどのように石原家の遺産や事業を管理していくのか、注目が集まることでしょう。
石原さんの決断は、芸能界における事業継承の新たなモデルケースとなるかもしれません。
この養子縁組を通じて、石原家の伝統と革新が融合し、新たな価値が生み出されることが期待されます。
石原まき子の兄弟は何人?
残念ながら、石原まき子さんに何人の兄弟がいるのかは確認できませんでした。
断片的な情報からわかったのは、戦死した兄、和男さんという弟、七郎さんという末の弟がいること。
戦時中の11歳の時には幼い和男さんとともに、母方の祖父が住む山梨県北巨摩郡藤井村へ疎開しました。
新宿駅を出発する時、母に手をぎゅっと握られて、「和男を頼みますよ」と託されたそうです。
疎開先で弟が黄疸になってしまった時は責任を感じたというまき子さん。
それからというもの、黄疸に効くというシジミを求めて川や田んぼに入り、弟にシジミのお味噌汁を作ったそうです。
それをおいしそうに飲む弟を見るのがこのうえなくうれしかったと振り返っています。
石原裕次郎さんと夫婦になり、死別するまでは27年。
未亡人になってからは、はや34年の長い年月が過ぎました。
戦後の日本映画界が生んだ伝説的カップルとして、この先も人々の記憶に長く刻まれることでしょう。
石原まき子、今は関連会社を経営
『狂った果実』で石原裕次郎さんと初共演して以来、『嵐を呼ぶ男』『陽のあたる坂道』など23作品でコンビを組んだ石原まき子さん。
女優時代の芸名は「北原三枝」です。
ビッグスター同士の結婚ということで、1960年には日活やファンを巻き込む大騒ぎになりました。
石原プロモーションは裕次郎さんの28回目の誕生日にあたる1962年12月28日に設立を発表した芸能事務所で、会見にはまき子さんも同席。
裕次郎さんを社長として、翌1963年1月16日に資本金3000万円、社員9名でスタートしました。
今日7月23日は、石原まき子夫人のお誕生日です🌹
いつまでも美しく、どんなときもお優しいまき子さん。
女性スタッフ全員の憧れです✨#石原まき子 #北原三枝#石原裕次郎 pic.twitter.com/G23OrqyWYu— 石原音楽出版社 (@ishiharapro1) July 23, 2018
「石原軍団」の愛称で親しまれ、『西部警察』のカーチェイスや爆破シーン、所属俳優の団結力、被災地での炊き出しなど、さまざまな記憶をファンに残した石原プロモーション。
設立からちょうど58年を迎えた2021年1月16日に惜しまれつつ解散しました。
代表取締役会長の石原まき子さんは、裕次郎さんの遺言が「俺が死んだら、事務所をたたみなさい」だったことを告白。
けれども、所属する俳優やスタッフの石原プロに対する思いの強さに心を打たれ、長いこと遺言を実行できなかったとのこと。
石原プロがなくなった今、まき子さんは亡夫の遺品や版権の管理を行う二つの法人「石原音楽出版社」「一般社団法人ISHIHARA」の名誉会長に就任しています。
生い立ちと韓国ルーツの噂
石原まき子さんは、裕次郎さんより1歳年上の姉さん女房。
両親や生い立ちに関する情報はほとんど出ていないため、ご本人の発言から断片的な情報を拾うしかありません。
生まれは東京・目黒区であり、東京大空襲で「上目黒の家が焼けた」と語っているので、実家は上目黒にあったと考えてよさそうです。
少女時代からダンスや芝居が好きだったというまき子さんは、早い時期から芸能界に憧れていたのかもしれません。
目黒区立第二中学校を卒業後に日劇ダンシングチームに入団しています。
石原まき子さんは「韓国」の関連ワードでもよく検索されていますね。
噂の出どころは不明ですが、じつは在日韓国人で、そのために裕次郎さんとの結婚を反対されたという風評も。
しかし、それらを裏づける情報はありませんでした。
噂のもとになったのは、旧姓の「荒井」が影響しているかもしれません。
ネット上には「○○という名字には在日韓国人が多い」といった声がよくみられますが、この手の説は安易に信じないほうが無難です。
また、仮に石原まき子さんのルーツが韓国にあったとしても何ら問題はないでしょう。
日本アカデミー賞授章式
素晴らしい場所に参加できましたことを感謝致します✨日本映画界が益々元気になります様に🤗
授賞式終了後に、石原まき子会長と✨#舘ひろし #石原まき子 #日本アカデミー賞 #終わった人 #主演男優賞 pic.twitter.com/z26IdE7pYb— 齋藤@TACHIスタッフ (@saitoat27) March 2, 2019
コメント
北原ミエさんこと荒井マキコさんの母親は山梨県の何代も続く農家の出であることは明白です。お父さんははっきりしませんが、戦時中のこと、日本人でも出生不明のまま死亡される方も多かったのです。韓国人説を否定するつもりはありませんが、戦前の日本の女性で韓国人と結婚する例はほとんどありませんでした。韓国人男と日本人女性の組み合わせは、数百万人の日本人男性が戦死し、止むを得ず韓国男と一緒になった事例が圧倒的です。更に、マキコさんの顔立ち、どう見てもアイヌ・縄文系の古来からの日本人的顔立ちです。当方、仕事で韓国を訪れることも多いが、彼女のような顔立ちは見掛けたことが無い。
尚、石原裕次郎在日説を見かけますが、彼の母親はれっきとした日本人、父親も1899年に愛媛県で生まれています。明治維新後間もない時代、それも韓国併合の10年以上も前の時代に愛媛県に韓国人が突如として現れるなど、とても考えられませんよ。万一、父親の両親が韓国人だったとすれば、どのようにして日本に入国したのでしょうか。
韓国人は、歴史的に日本から度々侵略を受け、その都度惨敗、駄目押しとして韓国併合、韓国の誇りも何もすっかり傷つけられた訳です。難癖・言掛りをつけて、政治家から官僚・学者、芸能人にスポーツマン、「ありとあらゆる著名人を韓国人とする」、これが今の韓国人のせめてのうっぷん晴らしですね。
北原三枝さんが日本人だろうが朝鮮人だろうがどうでも良い話ですが・・・
1883年にはすでに日本に在日韓国人は居たそうです。
流人や留学で日本へ入ったらしいです。
仕方ないですが、有名になるといろんな噂が出ますから。。。
裕次郎さんのお父様も在日と言われてますし。
裕次郎さんは松田聖子さんを愛人にして沙也加
さんが産まれた。とか。。。
裕次郎さんが性病で死んだとか。
皆んな何も知らない癖に勝手な事を言いたがる。
ガッカリします、、、