のちに夫となる石原裕次郎さんと日活のドル箱コンビとなり、結婚後はきっぱりと引退して内助の功に徹した石原まき子(いしはらまきこ)さん。
石原プロモーションは半世紀を超える歴史に幕を下ろしたわけですが、これに先立ち、子供のいないまき子さんが養子縁組していたことが明らかになりました。
養子とはいったい誰で、2023年現在はどんな状況なのでしょう。
まき子さんにささやかれる韓国ルーツの噂も含めて、生い立ちや兄弟についてもみていきます。
石原まき子のプロフィール
本名:石原 まき子
生年月日:1933年7月23日
出身地:東京都目黒区
配偶者:石原裕次郎
石原まき子、今は養子と関連会社を経営
『狂った果実』で石原裕次郎さんと初共演して以来、『嵐を呼ぶ男』『陽のあたる坂道』など23作品でコンビを組んだ石原まき子さん。
女優時代の芸名は「北原三枝」です。
ビッグスター同士の結婚ということで、1960年には日活やファンを巻き込む大騒ぎになりました。
石原プロモーションは裕次郎さんの28回目の誕生日にあたる1962年12月28日に設立を発表した芸能事務所で、会見にはまき子さんも同席。
裕次郎さんを社長として、翌1963年1月16日に資本金3000万円、社員9名でスタートしました。
今日7月23日は、石原まき子夫人のお誕生日です🌹
いつまでも美しく、どんなときもお優しいまき子さん。
女性スタッフ全員の憧れです✨#石原まき子 #北原三枝#石原裕次郎 pic.twitter.com/G23OrqyWYu— 石原音楽出版社 (@ishiharapro1) July 23, 2018
「石原軍団」の愛称で親しまれ、『西部警察』のカーチェイスや爆破シーン、所属俳優の団結力、被災地での炊き出しなど、さまざまな記憶をファンに残した石原プロモーション。
設立からちょうど58年を迎えた2021年1月16日に惜しまれつつ解散しました。
代表取締役会長の石原まき子さんは、裕次郎さんの遺言が「俺が死んだら、事務所をたたみなさい」だったことを告白。
けれども、所属する俳優やスタッフの石原プロに対する思いの強さに心を打たれ、長いこと遺言を実行できなかったとのこと。
石原プロがなくなった今、まき子さんは亡夫の遺品や版権の管理を行う二つの法人「石原音楽出版社」「一般社団法人ISHIHARA」の名誉会長に就任しています。
裕次郎さんとの間に子供がいない石原まき子さん。
甥を養子縁組して終活に向けて動きだしていたことも報じられました。
気になるのは、甥とはいったい誰なのか。
まき子さんの兄弟の息子とも、あるいは裕次郎さんの兄弟の息子とも考えられますね。
調べたところ、2017年から翌年にかけて「石原邦彦」なる人物が関連会社の取締役に相次いで就任していることがわかりました。
この男性こそ、まき子さんが養子に迎えた甥であり、弟の息子なのだそう。
もともとは東京・世田谷区で書店を経営していた邦彦さん。
2020年7月の時点で独身の50代とのことです。
まき子さんは2017年、裕次郎さんと暮らした成城の自宅の敷地内に別邸を新築し、邦彦さんはその家で実の両親と同居することになりました。
生い立ちと韓国ルーツの噂
石原まき子さんは、裕次郎さんより1歳年上の姉さん女房。
両親や生い立ちに関する情報はほとんど出ていないため、ご本人の発言から断片的な情報を拾うしかありません。
生まれは東京・目黒区であり、東京大空襲で「上目黒の家が焼けた」と語っているので、実家は上目黒にあったと考えてよさそうです。
少女時代からダンスや芝居が好きだったというまき子さんは、早い時期から芸能界に憧れていたのかもしれません。
目黒区立第二中学校を卒業後に日劇ダンシングチームに入団しています。
石原まき子さんは「韓国」の関連ワードでもよく検索されていますね。
噂の出どころは不明ですが、じつは在日韓国人で、そのために裕次郎さんとの結婚を反対されたという風評も。
しかし、それらを裏づける情報はありませんでした。
噂のもとになったのは、旧姓の「荒井」が影響しているかもしれません。
ネット上には「○○という名字には在日韓国人が多い」といった声がよくみられますが、この手の説は安易に信じないほうが無難です。
また、仮に石原まき子さんのルーツが韓国にあったとしても何ら問題はないでしょう。
日本アカデミー賞授章式
素晴らしい場所に参加できましたことを感謝致します✨日本映画界が益々元気になります様に🤗
授賞式終了後に、石原まき子会長と✨#舘ひろし #石原まき子 #日本アカデミー賞 #終わった人 #主演男優賞 pic.twitter.com/z26IdE7pYb— 齋藤@TACHIスタッフ (@saitoat27) March 2, 2019
石原まき子の兄弟は何人?
残念ながら、石原まき子さんに何人の兄弟がいるのかは確認できませんでした。
断片的な情報からわかったのは、戦死した兄、和男さんという弟、七郎さんという末の弟がいること。
戦時中の11歳の時には幼い和男さんとともに、母方の祖父が住む山梨県北巨摩郡藤井村へ疎開しました。
新宿駅を出発する時、母に手をぎゅっと握られて、「和男を頼みますよ」と託されたそうです。
疎開先で弟が黄疸になってしまった時は責任を感じたというまき子さん。
それからというもの、黄疸に効くというシジミを求めて川や田んぼに入り、弟にシジミのお味噌汁を作ったそうです。
それをおいしそうに飲む弟を見るのがこのうえなくうれしかったと振り返っています。
石原裕次郎さんと夫婦になり、死別するまでは27年。
未亡人になってからは、はや34年の長い年月が過ぎました。
戦後の日本映画界が生んだ伝説的カップルとして、この先も人々の記憶に長く刻まれることでしょう。
コメント
北原ミエさんこと荒井マキコさんの母親は山梨県の何代も続く農家の出であることは明白です。お父さんははっきりしませんが、戦時中のこと、日本人でも出生不明のまま死亡される方も多かったのです。韓国人説を否定するつもりはありませんが、戦前の日本の女性で韓国人と結婚する例はほとんどありませんでした。韓国人男と日本人女性の組み合わせは、数百万人の日本人男性が戦死し、止むを得ず韓国男と一緒になった事例が圧倒的です。更に、マキコさんの顔立ち、どう見てもアイヌ・縄文系の古来からの日本人的顔立ちです。当方、仕事で韓国を訪れることも多いが、彼女のような顔立ちは見掛けたことが無い。
尚、石原裕次郎在日説を見かけますが、彼の母親はれっきとした日本人、父親も1899年に愛媛県で生まれています。明治維新後間もない時代、それも韓国併合の10年以上も前の時代に愛媛県に韓国人が突如として現れるなど、とても考えられませんよ。万一、父親の両親が韓国人だったとすれば、どのようにして日本に入国したのでしょうか。
韓国人は、歴史的に日本から度々侵略を受け、その都度惨敗、駄目押しとして韓国併合、韓国の誇りも何もすっかり傷つけられた訳です。難癖・言掛りをつけて、政治家から官僚・学者、芸能人にスポーツマン、「ありとあらゆる著名人を韓国人とする」、これが今の韓国人のせめてのうっぷん晴らしですね。
北原三枝さんが日本人だろうが朝鮮人だろうがどうでも良い話ですが・・・
1883年にはすでに日本に在日韓国人は居たそうです。
流人や留学で日本へ入ったらしいです。
仕方ないですが、有名になるといろんな噂が出ますから。。。
裕次郎さんのお父様も在日と言われてますし。
裕次郎さんは松田聖子さんを愛人にして沙也加
さんが産まれた。とか。。。
裕次郎さんが性病で死んだとか。
皆んな何も知らない癖に勝手な事を言いたがる。
ガッカリします、、、