石井 弘寿(いしい ひろとし)さんはヤクルトの中継ぎエースとして活躍しました。
リリーフながら年俸も大台を超え、ロケットボーイズの愛称でも知られています。
今回は石井弘寿さんの引退理由や年俸、妻や子供などについて見て行きましょう。
石井弘寿のプロフィール
本名:石井 弘寿 (いしい ひろとし)
身長:180cm
血液型:A型
出身地:千葉県市原市
生年月日:1977年9月14日
所属球団:ヤクルトスワローズ ※選手(1996~2011) ※コーチ(2012~)
石井弘寿はたび重なる怪我で引退
まずは石井弘寿さんの怪我や引退について見て行きましょう。
180cmで100kgという恵まれた体格から繰り出す剛速球は威力バツグンで、2002年シーズンにはセットアッパーとしてリーグ最多の69試合に登板して最優秀中継ぎ投手に輝きました。
翌2003年は脇腹痛もあって登板数は36と大きく減少したものの、安定した防御率(1.99)を残すなどヤクルトだけでなく日本球界でも屈指のリリーフエースにまで成長。
自他共に認める投手にまで上り詰めた石井弘寿さんですが、その責任感の強さやチームに欠かせない存在となったことが結果として選手生命を絶つことになったのです。
2006年3月3日から始まる「第一回 ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)」に当然のように招集され、日本代表の一員として事前合宿に参加しました。
そこで左肩が上がらなくなり、痛み止めで騙しながら練習や試合に挑むことになったのです。
第一ラウンド(アジアラウンド)の日韓戦に1点リードの場面で登板しますが、韓国の主砲だった李承燁(イ・スンヨプ)選手に逆転のホームランを浴びてチームも敗北。
この時の怪我は「インピンジメント症候群」と呼ばれ、石井弘寿さんはチームと共にアメリカへ渡ったものの、左方の痛みが増したことで帰国を余儀なくされています。
同年秋に左肩腱板断裂の修復手術を受けてリハビリに取り組み、努力の甲斐もあって2008年9月27日のイースタン・リーグ最終戦で777日ぶりにマウンドへ戻って来ることができました。
しかし、全盛期のような150キロを超える球速や球威が戻ることは無かったのです。
2010年の春季キャンプでは4年ぶりに一軍帯同を果たしますが、屋内プールでのトレーニング中に右足親指を切ってしまい、4針縫う怪我だったこともあって一軍から離脱。
怪我の影響もあって2010年も一軍で登板することは無く、二軍で7試合に登板して防御率(11.12)に終わるなど結果も出なかったことから現役引退を決断しています。
WBCの時に肩の異常を伝えて治療していれば・・と思うところですが、呼んでくれた王監督への想いや日の丸を背負っているという心情を第三者が察することはできないでしょう。
ただ、自らのポリシーを貫いた末の結果なら石井弘寿さんも納得しているかもしれませんね。
最高年俸は1億5000万円
次はアスリートの評価基準でもある石井弘寿さんの年俸を見て行きます。
1995年のドラフト会議でヤクルトスワローズから4位指名されて入団し、高卒ルーキーながら7月には早くも一軍へ昇格して初登板(7月16日)だけでなく初勝利(8月10日)挙げています。
2001年からは本格的に中継ぎ投手に転向したことで一気に飛躍を遂げ、2000年は800万円だった年俸も2006年には1億5,000万円と約20倍になる”ベースボールドリーム”を叶えました。
ただ、前項で触れた通り2006年に左肩を痛めて登板数が激減してしまい、以後は一軍登板が無かったことから年俸も2008年は6,600万円、引退する2011年には1,000万円と激減。
日本プロ野球における石井弘寿さんの生涯年俸は17年で約7億5,000万円でした。
ちなみに、プロ野球選手の年俸は推定なので実際の金額と誤差がある点は御了承下さい。
石井弘寿の妻や子供について
次は石井弘寿さんを支え続けた妻や子供たちを見て行きましょう。
あまり家族に関する情報は見当たりませんでしたが、丁寧に調べて行くと結婚した妻や授かった子供たちの姿や名前を突き止めることが出来ました。
大きな資料となったのは2011年10月25日に行われた石井弘寿さんの引退セレモニーです。
記念写真を撮っている石井家の皆さんが確認できますが、男の子が長男の悠太(ゆうた)さんで隣に立っている女の子が長女の里奈(りな)さん。
石井弘寿さんの横にいる女性が妻の麻美子(まみこ)さんと次女の里佳(りか)さん、そして前に立っているのが母親の良子さんと亡くなった父親の良忠さん(写真)になります。
妻や子供たちの生年月日など詳細な情報はありませんでしたが、2023年現在はセレモニーから12年が過ぎているので子供たちも大学生や社会人になっていることでしょう。
野球選手などの引退セレモニーを見るたびに思いますが、孤独な戦いを続けるアスリートにとって家族というのはとても大きな存在であることは間違いないですね。
石井一久に憧れて同じ高校へ入ったはずが・・
最後に石井弘寿さんの石井一久さんにまつわるエピソードを紹介しておきましょう。
中学3年生だった弘寿さんは高卒ながらドラフト1位でヤクルトに入団した石井一久さんの活躍に憧れ、名字も利き腕も一緒という縁もあって同じ高校に行こうと決めたそうです。
選手名鑑に一久さんの出身校が「東京学館」と掲載されていたので迷わず同校を受験し、勉強を頑張った甲斐もあって見事に合格をして野球部の門を叩きました。
ところが、先輩にいくら高校時代の石井一久さんについて聞いても反応が無く、なんとなく事情を察した先輩から”ヤクルトの石井はここじゃないよ”という衝撃のひと言。
それもそのはずで、弘寿さんが入学した高校は千葉県印旛郡にある「東京学館」で、一久さんの母校は葉県浦安市にある「東京学館浦安」だったのです。
今の時代のようにインターネットが発達していれば防げたミスかもしれませんが、弘寿さんも石井さんに負けず劣らずの天然キャラだったのかもしれません。
ちなみに、違いを教えてくれた先輩のひとりが後にプロ野球へ進んだ相川亮二さんで、その相川さんと引退試合でバッテリーを組んだというのは不思議な縁を感じさせますね。
あくまで結果論ですが、石井弘寿さんが東京学館に進んだのは正解だったと言えるでしょう。
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