森有礼の教育制度、英語公用語化と留学。一橋大学創立と運動会奨励。子孫の活躍

明治期の政治家で、戦前日本における教育制度を確立した森有礼(もり ありのり)。

学校令を制定したことで有名な人物ですが、具体的にどのような教育制度を整えたのか見ていきましょう。

また彼の英語公用語化政策は、留学経験によって考え出したものなのか確認します。

さらに一橋大学の創立、運動会の奨励に絞って彼の事業をまとめつつ、子孫についても見ていきましょう。

森有礼のプロフィール

通称:森助五郎、森金之丞

本名:森有礼

生年月日:1847年8月23日(弘化4年7月13日)

死没:1889年2月12日

身長:不明

出身地:薩摩藩(現在の鹿児島県鹿児島市春日町)

最終学歴:薩摩藩開成所

森有礼による教育制度

有礼は1865年(慶応元年)、同じ薩摩藩士だった五代友厚らとイギリスに密航しています。

イギリスを旅したのちはアメリカへ渡り、異国の文化や宗教について学びました。


彼がアメリカ生活を送っている間、日本では明治維新が行われ、江戸時代が終焉。

有礼はアメリカ生活を通して、日本の軍事力を高めるためには人材教育が必須と考えるようになりました。

そのため帰国後は、日本における教育制度を整え始めるのです。

1885年(明治18年)に、第1次伊藤博文内閣で初代文部大臣になると、本格的に教育政策を実施。

翌年に「学位令」を発令し、博士と大博士の2学位を制定。

さらに「学校令」で、小学校から師範学校までを尋常小学校と高等小学校に分け、尋常小学校を義務教育機関とします。

また良妻賢母を理想に掲げた「生徒教導方要項」を女学校に配布します。

有礼は教育制度を整えることで、日本が西欧諸国の植民地にならないよう、人材育成に尽力したのです。

英語公用語化論は留学がきっかけ

有礼は日本語ではなく、英語を日本の公用語に定めようと考えていました。

数々の教育制度を整えた彼ですが、さすがに英語の国語化という無謀な目標は果たせずに終わります。

有礼は目標を果たせなかったどころか、欧化主義者とみなされ、国粋主義者に暗殺されてしまうのです。

彼が大胆にも、日本において英語を公用語化させようとした動機は、なかなか理解しがたいですね。

イギリス留学を経て、英語のすばらしさに目覚め、日本で英語を広めようとしたのでしょうか。

内田樹さんは、「有礼は日本の植民地化を防ぐため、英語を公用語として学術レベルを上げようとした」と考察しています。

見識の高かった有礼は、強国の言語が世界の共通語になることを知っていたのです。


留学を経験し、西欧の発展具合を心得ていたからこそ、日本人は世界で生き残るために英語を学ぶ必要があると感じたのでしょう。

留学は英語公用語化政策を目指すきっかけになったといえそうですね。

彼は日本国民が英語を話せれば、西欧諸国と対等に渡り合えるようになると考えたのです。

一見無謀な政策にも思えますが、有礼は日本人が話しやすいよう、簡易的な独自の英文法を作り上げようとさえしていました。

心底日本のためを思って具体的な対策を講じていた彼が、国粋主義者に暗殺されてしまったのは皮肉な話ですね。

結果的には教育制度が功を奏したこともあり、日本は強国の植民地になりませんでした。

英語の公用語化は実現しなかったものの、結果的に日本が強国と渡り合えたことは、有礼の魂にとって救いになるかもしれません。

森有礼は一橋大学の創立者

有礼は1875年(明治8年)、東京銀座尾張町に私塾「商法講習所」を創立しました。

商法講習所は、現在の一橋大学の源流にあたります。

有礼は諸外国と渡り合うためには、英語に加えて商業の知識も不可欠と考えていました。

学校建設の際には資金が足りなかったため、東京会議所の渋沢栄一からも支援を受けています。

同校では、お雇い外国人ウィリアム・ホイットニーが英語による授業を実施。

英語そのものだけでなく、簿記や算術などの実践的な商業科目も英語で学ぶ機関だったようです。

英語と商業を同時に学べる画期的な学校だったといえるでしょう。

その後は改編をくり返した末、1949年に一橋大学が発足。

有礼は一橋大学の創立者として称えられ、同大学の歴史に名を刻んでいます。

森有礼は運動会を奨励

有礼は小学校や中学校でおなじみの運動会を導入した人物でもあります。

1885年(明治18年)、全国の小・中学校の体育に兵式体操の科目を導入。

柔軟体操や教練などを行う科目で、有礼は成果発表の場として運動会の実施を奨励したのです。

元々は中学校で軍隊の行軍・演習をもとに行われましたが、娯楽性が人気となり、小学校にも広まりました。

有礼の整えた教育制度は、現代でもさまざまな形で残っているのです。

森有礼の子孫が活躍


志半ばで暗殺された有礼ですが、複数の子孫を残していました。

長男の清と、彼の息子で有礼の孫にあたる有剛は、貴族院の子爵議員となります。

また有礼の後妻で岩倉具視の娘・寛子は、夫の三男にあたる明を出産。

クリスチャンとなった明は、中渋谷日本基督伝道教会を設立し、牧師として活動しました。

明の息子は、芥川龍之介作品の仏訳で知らたフランス文学者の森有正さんです。

また明の娘は、平和運動家として活動した関屋綾子さん。

「世界平和アピール七人委員会」のメンバーとして活動し、「原爆の図丸木美術館」で館長も務めました。

著名な教育者の子孫たちは、いずれも高い教養を誇る人材に成長していたことがわかりましたね。


近年は、運動会をはじめ軍隊風の学校教育になじめない子供も増えているようです。

時代に合った制度改革を行っていくことも、ある意味では改革者・有礼の志を継ぐことにつながるかもしれません。

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