回船で江戸へ向かう途中に漂流し、ロシア帝国で女帝エカチェリーナ2世に謁見した大黒屋光太夫(だいこくや こうだゆう)。
およそ10年後に帰国した彼の数奇な人生は、井上靖の小説『おろしや国酔夢譚』にも描かれましたね。
今回は光太夫の子孫が早世したという情報、ロシア漂流の詳細、光太夫と2人のラクスマンとの関係を見ていきます。
また光太夫と「紅茶の日」の関係、同じく漂流民の磯吉という人物についても確認しましょう。
大黒屋光太夫のプロフィール
幼名:兵蔵
生年月日:1751年(宝暦元年)月日不明
死没:1828年5月28日(文政11年4月15日)
身長:不明
出身地:伊勢亀山藩領南若松村(現在の三重県鈴鹿市南若松町)
大黒屋光太夫の子孫は早世した漢学者
2023年現在、光太夫直系の子孫はいません。
彼には息子がいたものの、未婚のまま早世しており、子孫は途絶えてしまったのです。
息子は大黒梅陰という漢学者でした。
14歳で奉公に出て、商人として熱心に働いたそうです。
読書家だった彼のために、店の主人は金貸し業で手にした利益を、学業のサポートに費やしました。
主人の死後に店が傾くと、彼に恩義を感じていた梅陰は、店の借金を請け負ったそうです。
また父親である光太夫の死後は、母親を養いながら門人に対して朱子学を教え始めます。
実直な性格だった梅陰は、生涯結婚せず、55歳で亡くなりました。
家族を養いながら学問に明け暮れた、立派な生涯といえますね。
他人に喜んで本を貸し出し、喧嘩を好まない素朴な性格だったため、多くの人から慕われていたに違いありません。
ロシア漂流、2人のラクスマンとの関係
1783年(天明2年)、船頭・光太夫は、伊勢から江戸へ向かっていた「神昌丸」ごと嵐によって漂流しました。
合計17人を乗せた船は、7か月の漂流を経て、アリューシャン列島のアムチトカ島へ漂着。
光太夫たちは先住民やロシア人と交流し、ここでロシア語も習得します。
4年後には新たに造った船で、ロシア人と共にカムチャッカからイルクーツクへ向かいました。
イルクーツクで出会ったのが、博物学者のキリル・ラクスマンです。
光太夫たちを不憫に思った彼は、帰国できるよう手を尽くしますが、失敗してしまいました。
そこで女帝エカテリーナ2世に直接交渉するため、キリルと光太夫はペテルブルグへ向かいます。
キリルは長旅がたたり、腸チフスにかかってしまいますが、光太夫が献身的に看病して持ち直しました。
苦労の末、ついにエカテリーナ2世との謁見が実現。
エカテリーナ2世は、鎖国していた日本へ通商を要求するという条件で、漂流民の返還を認めました。
日本はロシアにとって、海路でシベリアへ向かう際の拠点として最適だったのです。
努力が実った光太夫は、ようやく帰国許可を得ました。
1792年(寛政4年)8月21日、オホーツクに到着した光太夫とキリルは、別れのときを迎えます。
光太夫はキリルの足下へひざまずき、帰国まで親身に支えてくれた彼に対し、深い謝意を示しました。
キリルの弟で交渉役のアダム・ラクスマンは、光太夫たち3人の漂流民と共に蝦夷へ向かいます。
交渉役だったアダムの方が日本史上では有名ですが、兄キリルの方がより親身に光太夫たちを支えていたといえますね。
#歴史知らない人が嘘だと思うけど本当の事言え
鎖国時代にロシアに漂着した大黒屋光太夫を日本に送り届けたアダム・ラクスマンは若造の陸軍少尉で、ただの護送役。
光太夫の帰国を実現した真の功労者は、その父で博物学者のキリル・ラクスマン。
女帝エカチェリーナ2世に働きかけたのはキリル。 pic.twitter.com/UjcNszsW6s— 忍豚 (@ninton) April 27, 2020
17人の漂流民のうち、12人はそのままロシアで生涯を過ごし、2人はイルクーツク残留を望みました。
中にはロシアで重病にかかったため、病床で洗礼を受けてキリシタンとなった人もいたそうです。
そのため光太夫と残り2人の漂流民だけが、同年10月に根室へ入港。
漂流から10年目にようやく帰国が叶ったのです。
その後ラクスマンは、松前藩を通して江戸幕府へ通商を求めます。
幕府は方針決定を翌年まで待つよう求め、ラクスマンと漂流民の対応について議論を重ねました。
採用されたのは、老中・松平定信による案です。
漂流民は返還してもらうものの、使節の江戸来航は拒否し、長崎限定で通商を認めるというもの。
鎖国時代において、たとえ長崎限定であっても通商を認めるというのは、非常に画期的な案でした。
長崎を開国すれば、外国から攻撃される危険性もありましたが、松平は渾身の妥協案を提示したのです。
ラクスマンは提案を受け入れ、松前で漂流民を返還し、長崎入港の許可を得ました。
しかし彼は長崎に向かわず、そのままロシアへ帰国します。
長崎への入港許可を得ただけでも、大手柄だったのでしょう。
実際に、ラクスマンは手柄を讃えられ大尉にまで昇進しました。
幕府側は開国する必要がなくなったため、松平も安堵したことでしょう。
日本人として初めて紅茶を飲んだ日
日本紅茶協会では、毎年11月1日を「紅茶の日」と定めています。
由来は1791年(寛政3年)の11月1日、光太夫が日本人として初めて紅茶を飲んだことです。
日本紅茶協会です☕️
本日11月1日は「紅茶の日」
日本人が初めて外国の正式な茶会に招かれ、西洋式の紅茶を飲んだという事から日本紅茶協会が「紅茶の日」と定めました。
大黒屋光太夫がなぜ外国で紅茶を飲んだのか、波乱万丈の記録が《北槎聞略》として出版されています。
読書の秋🍂紅茶と共にぜひ📚 pic.twitter.com/XNa9LDbq7e— 日本紅茶協会公式アカウント (@JTeaAssociation) November 1, 2019
帰国許可を得るためエカテリーナ2世に謁見した際、彼は本格的な茶会で紅茶を口にしたのです。
漂流を経て、苦労の末に女帝との謁見が叶った光太夫。
彼が口にした紅茶は、特別な味がしたに違いありません。
帰国許可を手に入れ、おいしい紅茶とお菓子を楽しんだ時間を、彼は生涯忘れなかったことでしょう。
帰路に向かった光太夫の馬には、餞別にもらったお茶と砂糖が積まれていました。
彼はお茶で喉を潤しながらオホーツクに向かい、帰国を果たしたのです。
行動を共にした漂流民の磯吉
光太夫と共に漂流し、ロシア滞在を経て根室に帰国したのが、磯吉という船乗りでした。
洋装の光太夫を描いた肖像画がありますが、隣で同じく洋装で描かれている人物が、磯吉です。
大黒屋光太夫は伊勢亀山藩南若松村(三重県鈴鹿市南若松)の船宿が生家。
天明2年(1782)嵐のため江戸へ向かう回船が漂流しアリューシャン列島のアムチトカ島に。十年後女帝に謁見帰国を許される。
Photo1:光太夫と磯吉 2:アムチトカ島の風景 3:大黒屋光太夫が書いた日本地図 pic.twitter.com/0FEmrEhEBo— 大地 光 (@daitihikaru) May 28, 2017
通説では、エカテリーナ号で光太夫ともう1人の船員・小市と共に、根室へ帰国しました。
その後は江戸に送られ、「幕府薬草植場」に軟禁され、73歳で生涯を終えています。
小説『おろしや国酔夢譚』では、2人が軟禁中に不遇の生活を送ったように描かれました。
しかし実際は、親族との交流を楽しみ、時には郷里・伊勢へ帰国するなど悠々自適に暮らしていたようです。
2人はロシアでの思い出を共有できる数少ない同志として、漂流や謁見の思い出を語り合っていたのかもしれませんね。
光太夫と磯吉の波乱に満ちた人生は、今後も歴史ロマンに惹かれる人々によって、映画や舞台で描かれ続けるでしょう。
コメント