漂流していた際に捕鯨船に救助され、アメリカに渡って日米の架け橋となったジョン万次郎(ジョン まんじろう)。
大河ドラマや、ミュージカル『ジョン万次郎の夢』でもおなじみの英雄ですね。
今回は万次郎の子孫が今でも活躍しているという情報と、妻の詳細を家系図で確認します。
また生家が高知県にあるという情報、母との再会エピソードも見ていきます。
ジョン万次郎のプロフィール
愛称:ジョン・マン
本名:中浜万次郎
生年月日:1827年1月27日(文政10年1月1日)
死没:1898年11月12日
身長:不明
出身地:土佐高知藩知行中ノ浜村(現在の高知県土佐清水市中浜)
子孫と妻を家系図で確認。子孫も英語が堪能
英語を駆使し、日米和親条約の締結にも貢献した万次郎。
彼の子孫もまた、英語に秀でた人材に成長していました。
万次郎直系の子孫で5代目にあたるのが、中浜京さんです。
ジョン万次郎さん直系の5代目ご子息、中濱京さんとイベントでご一緒でした。感激! pic.twitter.com/H7jDhdMjF2
— TAN-SU(たんす)公式 (@tansudesu) February 20, 2016
祖先の伝記『ジョン万次郎』の著者であると同時に、「土佐ジョン万会」の名誉顧問でもあります。
1982年に金城学院短期大学部国文科を卒業し、富士通株式会社に就職。
その後はアメリカ留学を果たし、1992年にオレゴン州レインコミュニティーカレッジを卒業します。
帰国後は株式会社富士通システムズ・ウエストで、事務として勤務してきました。
京さんは幼少期、漂流していた万次郎を救ったウィリアム・ホイットフィールド船長の子孫と親交がありました。
アメリカに渡った祖先の存在を幼少期から意識していたからこそ、早い段階で英語学習に取り組み始めたようです。
京さんは仕事の傍ら、祖先の足跡を後世に伝え続けてきました。
万次郎の子孫は優秀な人材として、現代でも活躍し続けていることがわかりましたね。
ただし彼の優秀な子孫は、京さんだけではありません。
万次郎は生涯に3度結婚しており、それぞれの妻との間に5男2女をもうけています。
3人の妻は、鉄、琴、志げという名前でした。
最初の妻で、道場の娘だった鉄は、結婚から9年で麻疹により病没。
再婚相手で、医者の娘だった琴とは、何らかの理由で離婚。
最終的に万次郎は、仙台藩田沼家の養女・志げと再々婚しました。
これまで直系の子孫は、最初の妻・鉄の子孫ばかり注目されてきましたが、近年は志げの子孫もメディアに登場しています。
万次郎と志げのひ孫にあたるのが、野武重忠さんです。
東京藝術大学を卒業し、トロンボーン奏者として「読売日本交響楽団」で活動。
26歳で、やはり祖先ゆかりの地であるアメリカに渡り、北米やカナダなどで演奏会に出演しました。
指揮の野武重忠さんは藝大トロンボーン科のOBで、僕が学生だった頃に芸大オケ、今の藝フィルに在籍されていて、モーニングコンサートではお世話になりました。
— 古賀慎治 / Shinji Koga (@shinjitrb) October 14, 2019
東洋人のため人種差別を受けたものの、国同士のスケールの差を知るうちに、寛容な心を持てるようになったそうです。
アメリカ生活は、自身の生き方を決定づける基盤になったといいます。
万次郎と志げには男児が2人いたものの、長男は生後間もなく病没。
次男で、野武さんの祖父にあたる秀俊が成長し、6人の子供たちをもうけました。
秀俊の長男で、野武さんの父である忠好さんは、「沼口家」に養子入り。
野武さんも20歳までは沼口姓で育ったものの、後継ぎのいない母の実家「野武家」を継ぎ、現在に至るそうです。
万次郎の子孫はいずれも英語を駆使し、多様な分野で活躍していることがわかりましたね。
生家は高知。復元され見学可能
2010年、高知県土佐清水市中浜に、万次郎の生家が復元されました。
茅葺木造平屋建ての生家は、土佐清水市内の有志が募金を呼びかけた結果、復元が実現したそうです。
つづき 3/3 四国お遍路のときに行ったジョン万次郎の復元された生家 pic.twitter.com/Z76cvWkhyG
— アンギャマン (@ANGYAMAN) January 22, 2020
ジョン万次郎さんの生家(復元)町には鰹節工場のいい香りが漂っています pic.twitter.com/Aa9Nu2q5iY
— 迷い中P (@mayoichuP) November 24, 2018
生家の内部は非常に狭く、半農半漁の貧しい一家だった様子がうかがえます。
万次郎は9歳で父を亡くし、病弱な母と兄に代わり、幼少期から働きに出ていました。
漁師として懸命に働き、読み書きを習う余裕もなかった彼が、日米の懸け橋になるとは誰も予想していなかったはず。
鰹節の香りが漂う漁師の町で、万次郎のドラマチックな人生に思いを馳せるのも、魅力的な時間になりそうですね。
ジョン万次郎、母との再会
万次郎の母は汐(しお)という女性でした。
万次郎は14歳のとき、突然の強風により乗船していた漁船ごと遭難してしまいます。
汐は行方不明になった息子の無事を信じ、来る日も来る日も海を眺めていたようです。
万次郎は無人島に漂着し、溜水や海藻で飢えをしのいでいたところ、捕鯨船ジョン・ハウランド号の乗組員によって救助されました。
当時の日本は鎖国しており、帰る術がなかったということもあり、万次郎はホイットフィールド船長と共にアメリカへ向かうのです。
中浜万次郎。土佐清水市中浜出身。14歳で出漁。難破。アメリカの捕鯨船に救出される。船名ジョン・ハウランド号にちなみジョン万次郎と呼ばれた。同船長のはからいで日本初の渡米者となる。語学を買われ帰国後も政府の通事など要職を歴任。下の写真は彼の事績と足摺岬園内の銅像。ご覧あれ。 pic.twitter.com/VZt5ZU6mEM
— 天翔坊 (@ktpfz) June 3, 2019
そして遭難から11年後、アメリカから何とか帰国した万次郎は、薩摩や長崎で取り調べを受けます。
長崎ではキリスト教徒でないことの証に、踏み絵を踏んだそうです。
取り調べを経てようやく故郷の土佐に帰り、母とも再会を果たしました。
息子の無事を信じていた母にとって、彼との再会の日は、人生最良の日だったに違いありませんね。
まるで壮大な映画のように劇的な万次郎の生涯は、今後も歴史ロマンとして語り継がれ続けるのでしょう。
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