勝海舟の子孫と家系図。父が変わり者、子供は9人。家紋丸に剣花菱

幕末の武士としてカリスマ的人気を誇る勝海舟(かつ かいしゅう)。

大河ドラマでも度々描かれてきた歴史上の偉人ですが、子孫は現在まで続いているのでしょうか。

今回は海舟の子孫を家系図から確認しましょう。

また勝の父が変わり者という情報、勝の子供、勝家の家紋についてもまとめます。

勝海舟のプロフィール

幼名:勝麟太郎(かつ りんたろう) ※のちに義邦(よしくに)、安芳(やすよし)と改名

生年月日:1823年3月12日(文政6年1月30日)

死没:1899年1月19日

身長:推定157cm前後

出身地:江戸本所亀沢町(現在の東京都墨田区両国)

最終学歴:長崎海軍伝習所

勝海舟の子孫と家系図

まず海舟の子孫を家系図で確認します。

海舟の家系図をひも解くと、非常に個性的な人々が多いことがわかりました。


彼の玄孫にあたる高山みな子(こうやま みなこ)さんも、ユニークな経歴の持ち主です。

慶應義塾大学文学部を卒業後、会社勤務を経てフリーライターとなりました。

さらにライター業の傍ら、ガラス工芸家としても活動。

「鎌倉谷戸の工房」を運営し、お皿やグラスなどの商品を制作販売しています。

一方「勝海舟の会」名誉顧問にも就任し、トークイベントや講演を通して、先祖の功績や人柄を伝えてきました。

「海舟はスイーツ男子で、チョコレートが好きだった」という意外な一面がうかがえる面白エピソードも紹介しています。

子孫ならではの知識を活かし、偉人の素顔を伝えることで、人々が彼に親しみを持ってくれるよう努めてきたのでしょう。

さらに高山さんは、人気クイズ番組『Qさま‼』に回答者として出演したことがあります。

彼女が選択した歴史問題が、偶然にも海舟に関する問題だったという一幕もありました。

高山さんはさまざまな分野で活躍しながら、祖先の業績を伝え続けてきたのです。

立派な子孫の様子を、海舟も満足げに眺めていることでしょう。

父が変わり者だった

海舟の家系図の中でもとりわけユニークだった人物が、彼の父にあたる勝小吉です。

小吉は旗本「男谷(おたに)」家の三男でしたが、勝家へ養子に出されます。

しかし学問嫌いで感情的な性格の子供だったそうです。

突如14歳で家出しますが、途中で盗賊に襲われ、無一文になってしまいます。

その後は乞食をしながら伊勢参りを果たしました。

病気を患った際も乞食の仲間や賭場の親分たちに助けられて、無事に江戸へ帰ったそうです。

ちなみに野宿をしていた際、崖から落ちて片方の睾丸をつぶしてしまったといいます。

実は息子である海舟も幼少期、野犬に片方の睾丸を食いちぎられているため、不思議な縁を感じますね。

小吉は信(のぶ)という女性と所帯を持つものの、再び家出しました。

人足や宿屋をだましながら旅を続けますが、江戸から迎えに来た甥に懇願されて帰宅。


帰るや父親によって座敷牢へ入れられ、21歳から3年間を牢屋で過ごしました。

その間に海舟が生まれましたが、小吉は幼い我が子に家督を譲り、自身は隠居を希望。

父親に命じられ就職活動しますが、日頃の行いが祟り失敗。

結局、喧嘩や道場破りをしながら、生涯無職で過ごしました。

1838年(天保9年)、37歳で隠居し、息子に家督を譲ります。

現在の溜池近くに庵を構え、『夢酔独言』と『平子龍先生遺事』という2冊の書物を執筆。

この時期に至って、ようやく落ち着いた生活を送り始めたようです。

1850年(嘉永3年)、脚気と思われる病気により、49歳で亡くなります。

隠居中に書いた『夢酔独言』は、子孫が決して自分の真似をしないよう戒める目的で、自身の行動を記したものです。

かなり誇張を交えながら、家出時の珍道中が描かれており、一種の旅文学として面白い作品といえます。

『平子龍先生遺事』は、小吉が交流していた御家人・平山行蔵の豪傑さを描いたもので、当時の武芸者の様子がうかがえる作品です。

奇行をくり返しながら、2冊の書物を書き残した小吉。

海舟は変わり者の父を見ていたからこそ、「自分がしっかりせねば」と決意し、立派な武士に成長したのかもしれませんね。

勝海舟の子供は9人

海舟は正妻と複数の妾との間に、合計9人の子供をもうけています。

長男の勝小鹿(かつころく)は、海軍卿だった父の背中を追い、海軍の道を選びました。

アメリカのラトガース大学留学を経て、海軍省留学生となります。

卒業後はイギリスとフランスを視察して帰国。

帰国後は海軍大尉に任官するものの、病弱だったため、長期休職しています。

1880年(明治13年)に兵学校練習船「摂津艦」副長となりますが、翌年には療養。

その後復帰し、静岡県の士族「斎藤」氏の妹と結婚しました。

しかし結局、復帰と休職をくり返しながら、39歳の若さで病没してしまいます。

病弱でなければ、多くの業績を残したかもしれないことを考えると、大変もったいないですね。

実子に先立たれた海舟は、小鹿の長女・伊予子を、徳川慶喜の十男・精(くわし)と縁組させました。

こうして精が婿入りし、何とか勝家の家督は継承されます。

精は実業家となり、「オリエンタル写真工業」や「浅野セメント」で役員となりました。

ちなみに海舟の三男・梶梅太郎は、どうやら祖父・小吉に似てしまったようです。

アメリカ人のクララと結婚し、6人の子供をもうけたものの、生活は完全に妻任せだったといいます。

海舟の死後、クララは夫を捨てて、子供たちと共に帰国してしまったそうです。

勝家は優秀な人物とだらしない人物が入り混じっている点で、ユニークな家系でしたね。

家紋は丸に剣花菱

勝家の家紋が気になる人は多いようです。

調べたところ、勝家の家紋は「丸に剣花菱」でした。

剣があしらわれた家紋には、剣術修業に明け暮れた海舟の生涯そのものが表れているようにも見えますね。


個性豊かな人々が織りなす勝家の家系図は、今後も歴史マニアの注目の的であり続けるでしょう。

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