間宮林蔵の子孫はアイヌ民族。家系図と生家。忍者説を検証&お墓も紹介

樺太探検を通して「間宮海峡」を発見した間宮林蔵(まみや りんぞう)。

伊能忠敬に測量を学んだ優秀な探検家として知られていますが、意外な一面もあるようです。

林蔵の子孫がアイヌ民族だったという情報を家系図でチェックし、生家について見ていきます。

併せて忍者説、お墓についてもご紹介します。

間宮林蔵のプロフィール

本名:間宮倫宗(まみや ともむね)

生年月日:安永9年(1780年)、月日不明

死没:天保15年2月26日(1844年4月13日)

身長:153cm

出身地:常陸国筑波郡上平柳村(現在の茨城県つくばみらい市)

間宮林蔵の子孫はアイヌ民族。家系図まとめ

林蔵は樺太を探検し、蝦夷地の測量に生涯をかけた人物です。

場合によっては命をかけて未開の土地へ赴く探検家でした。

そのため生涯妻帯せず、子孫はいないというのが通説だったそうです。


しかし2002年、郷土史研究家の調査により、子孫が発見されました。

直系の子孫と認定されたのは、北海道旭川市在住で、旭川アイヌ協議の会長を務めた間見谷喜昭さんです。

測量中にアイヌ民族と交流のあった林蔵が、アイヌの女性にはらませた娘の子孫ということでした。

2003年3月25日、林蔵をしのぶ「林蔵祭」が故郷の茨城県伊奈町で開かれると、喜昭さん父子も参加しました。

先祖の故郷を初めて訪れたことに「感無量です」とコメント。

記念式典では父子でアイヌ民族の儀式「カムイノミ」を披露しました。

仕事一筋とされた林蔵が、北の大地で思わぬロマンスを体験していたようですね。

非常にロマンチックな事実がわかり、子孫も式典に参加できたのは幸運だったといえます。

残念ながら喜昭さんは2008年に78歳で亡くなりましたが、今でも子孫たちは間宮家の血筋を残し続けているのです。

間宮林蔵の生家は記念館内で公開

林蔵の生家は、茨城県つくばみらい市上平柳64-6の「間宮林蔵記念館」内に保存されています。

記念館はギャラリー・ホールを備えた鉄筋コンクリートの近代的な建築物です。

展示室では林蔵にまつわる豊富な資料が公開されています。

近代的な記念館とは対照的な雰囲気の生家は、木造茅葺の平家で、1971年に移築復元されたものでした。

生家の鬼瓦や記念館前に建つ林蔵の立像は存在感があり、一度直接目にしてみたいものですね。

林蔵の生涯を知るうえでは、外せないスポットといえるでしょう。

間宮林蔵は忍者だった?

ところで林蔵には忍者説があるようですが、本当だったのでしょうか。

実は林蔵は単なる探検家ではなく、幕府のスパイとして各地を回っていました。

樺太探検についても測量以外に、ロシア帝国の動向を探るためという裏の目的もあったようです。

有名な1828年(文政11年)のシーボルト事件も、林蔵のスパイ活動によって起きたとされています。

ドイツ人医師のシーボルトが帰国直前、国外持ち出し禁止の日本地図を持っていたため国外追放になった事件です。

シーボルトに地図を渡した高橋景保ら数十名が処分されたのも、林蔵の密告によるものだったとされています。

また林蔵は変装に秀でていたとされており、ホームレスやアイヌ民族の姿になって各地を探検していたそうです。


つまりその実体は探検家ではなく、幕府のスパイとして各地へ潜入し情報を探る忍者だったといえそうですね。

手裏剣を操り、忍法を使うことはないものの、変装を得意とするスパイという意味では忍者と認定してよいのではないでしょうか。

間宮林蔵のお墓は2つ

林蔵の墓所は東京都江東区と茨城県つくばみらい市の2か所にあります。

なぜ2つもお墓があるのか、理由を確認しましょう。

江東区のお墓は、スカイツリーが見える歩道沿いにひっそりと建っています。

街中にたたずむ小さな墓所のため、気に留める人は少ないかもしれません。

ただし立て札に業績がつづられていることからも、幕府に仕えた武士として、立派に葬られたことがうかがえますね。

もう一方のつくばみらい市のお墓は、菩提寺の専称寺にあります。

小さな墓石の正面に「間宮林蔵墓」と刻まれているほか、法名や没年は見当たりません。

実はこちらのお墓は、1808年(文化5年)、樺太探検へ出発前の林蔵が決死の想いで自ら建てたものでした。

未知の土地から二度と戻れない可能性を視野に入れつつ、探検へ臨んだ彼の覚悟が伝わってきますね。


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