高田屋嘉兵衛の子孫と家系図。妻おふさ、家族について。ゴローニン事件と函館繁栄

蝦夷地の函館で活躍した江戸後期の廻船商人・高田屋嘉兵衛(たかたや かへえ)。

司馬遼太郎の小説『菜の花の沖』では主人公として描かれましたが、具体的にどのような人物だったのでしょうか。

今回は嘉兵衛の子孫を家系図でチェックし、妻のおふさをはじめ家族情報をまとめます。

また彼を有名にしたゴローニン事件の詳細と函館を繁栄させた功績をご紹介します。

高田屋嘉兵衛のプロフィール

幼名:菊弥

本名:高田屋嘉兵衛

生年月日:明和6年1月1日(1769年2月7日)

死没:文政10年4月5日(1827年4月30日)

身長:推定150cm前後

出身地:淡路国津名郡都志本村(現在の兵庫県洲本市五色町都志)

高田屋嘉兵衛の子孫は借金で苦労。家系図まとめ

2021年現在も嘉兵衛の子孫は健在で、高田屋を継いでいます。

8代目当主の高田菜々さんは、すでに閉館した「北方歴史資料館」の館長でした。

父は東京の赤坂で不動産業に従事し、財を成した結果、1988年に高田家に伝わる古文書などを展示する同館を開館。


開館費用は何と3億円ほどだったそうです。

父は80歳近くまで健康に過ごしていたものの、ある日自宅の階段から転落して首の骨を折り、突然亡くなりました。

函館の資料館は彼が一切の運営を取り仕切っていたため、遺族は管理方法がわからず途方に暮れたそうです。

しかも数千万円の借金まであったことがわかり、菜々さんは当然パニックになります。

母、兄、姉は「資料館と資料を手放し、借金をなくすべき」と主張。

しかし菜々さんは、どんな資料があるかわからないため、中身を調べたうえで判断することにします。

先祖の嘉兵衛が何をしたか知らなかったものの、美術系大学で学芸員資格を取っていたため、博物館に関する知識があったそうです。

学芸員資格は父にすすめられて取ったため、このとき「仕組まれていた」と感じたのは当然ですね。

ひとまず菜々さんは博物館法に定められた開館日数に足りなくなると、税金が免除されなくなることを知ります。

急きょ会社を辞め、函館へ移住したのち、膨大な資料の調査を始めました。

大胆な決意ですが、夫も理解を示し、一緒に仕事を辞めて移住してくれたそうです。

非常に思いやり深い旦那さんですね。

内容は7千ページ分の古文書、幕末から明治へかけての写真だったそうです。

先祖の人となりを知った菜々さんは、資料を残していくために館長となって博物館を継ぎました。

しかし運営はうまくいかず、残念ながら2013年に閉館。

菜々さんは資料を持って東京に引き揚げました。

司馬遼太郎が先祖について書いた『菜の花の沖』は、2014年のインタビュー時点で「未読」とコメントしています。

人生をめちゃくちゃにされた原因が嘉兵衛のため、冷静に読めそうにないとのことでした。

豪商の子孫でありながら、先祖のせいで苦労してしまったのは皮肉な話です。

資料の適切な引き取り先が見つかれば、少しは菜々さんの心労も軽くなるかもしれませんね。

高田屋嘉兵衛の妻はおふさ。家族まとめ

嘉兵衛の妻はおふさという女性でした。

ドラマ『菜の花の沖』では嘉兵衛を竹中直人さん、おふさを鶴田真由さんが演じていました。

都志村の網元の娘として生まれ、嘉兵衛と結婚。

しかし夫は国後島沖でロシア人に捕らえられ、カムチャッカへ連行されてしまいます。

おふさは四国八十八か所にお参りし、夫が無事に帰るよう祈ったとされています。

嘉兵衛は無事に帰還後、夫婦でお礼参りに出かけたそうです。

夫婦には長男の弥吉がいましたが、放蕩癖があり勘当されています。

その後は大坂で茶の商売に従事し、宇治の茶問屋に養子入りしました。

嘉兵衛は店を弟の金兵衛に譲り、淡路島で隠居生活を送ったのち、59歳で世を去ります。

結果的に高田屋は没落してしまいました。

理由は松前商人から嫌われてしまったという説が有力のようです。

儚い一代の栄華を思うと、やや切ない気持ちになりますね。

高田屋嘉兵衛はゴローニン事件の解決に貢献

嘉兵衛と言えば、ゴローニン事件の解決に貢献したエピソードが有名です。

1811年(文化8年)、ロシアの軍艦「ディアナ号」のヴァシリー・ゴローニン艦長は千島列島を測量していました。

しかし彼らは国後島で松前奉行の役人に捕らえられ、2年以上を日本で過ごすことになるのです。

「ディアナ号」のピョートル・リコルド副艦長は、日本人を捕縛することで、ゴローニンと交換しようと計画。

しかし日本側から「ゴローニンはすでに処刑した」と告げられました。

これを嘘と見破ったリコルドは、事件翌年の8月14日、国後島沖で嘉兵衛の手船「観世丸」を拿捕。

嘉兵衛を含む乗組員6名をペトロパブロフスクに連れ帰りました。

嘉兵衛はリコルドやオリカ少年ら、現地の人々と交流を深め、ロシア語も学んだそうです。

新年には日本酒を振る舞うなど、至って平和に過ごしていたといいます。

しかし抑留中に乗組員3名が病死し、嘉兵衛は問題解決のため本格的に動き出しました。

リコルドは日本政府へゴローニン事件の謝罪文提出を求めていました。

嘉兵衛は当時カムチャッカの長官だったリコルドに対し、長官名義の謝罪文を書くよう伝え、自ら交渉役を申し出ます。

1813年(文化10年)5月、嘉兵衛らを乗せた「ディアナ号」はペトロパブロフスクを出港。

船が国後島に着くと、松前奉行とロシアの担当者がそれぞれ交渉に入ります。

互いの謝罪文が受諾されれば、捕虜が交換されるはずでした。


しかし松前奉行は、リコルドではなくロシア政府高官が書いた公式の謝罪文の提示を求めたのです。

リコルドは要求を承諾し、6月24日にオホーツクへ出発。

しかし謝罪文を手に入れたのち、嵐に見舞われてしまいました。

9月18日の朝、嘉兵衛がディアナ号を訪れ、ようやくリコルドからオホーツク長官による文書を渡されます。

松前奉行はロシアの釈明を受け入れたのち、9月26日にゴローニンを解放。

晴れて「ディアナ号」は29日に函館を出て、翌月に帰還しました。

高田屋嘉兵衛は函館に繁栄をもたらす

1999年、北海道函館市に「日露友好の碑」が建立されました。

ゴローニンとリコルドの子孫が、嘉兵衛の子孫と再会した際、記念碑として造られたのです。

ゴローニン事件の解決に奔走した嘉兵衛の偉大さが伝わってくるエピソードですね。

元々函館は未開の地でしたが、27歳の嘉兵衛はここを商売の拠点に選びました。

「港は良いし、幕府が蝦夷地を管轄すれば、東蝦夷地の豊富な漁獲物は函館に集まる」と鋭く予見していたのです。

庄内で新造した「辰悦丸」に酒や米、木綿などを積み込んで函館へ向かいます。

その後は回船問屋の白鳥勝右衛門の家を宿とし、魚介類を買い込みました。

30歳で函館に店を開業し、蝦夷地開発に乗り出します。

1801年(享和元年)、択捉航路を発見し、択捉島を開拓した功績で苗字帯刀を許されました。

この時期から高田屋と名乗り、土地の開拓や杉と松の植樹などを実施。

大火により店舗を失ったものの、嘉兵衛は人々の救援と復興に尽力しました。

大坂奉行からも実力を認められた嘉兵衛は、一代で財を築き上げたのです。


単なる豪商ではなく、函館の繁栄に貢献した英雄といえますね。

借金を負った子孫にとっては複雑な事実かもしれませんが、嘉兵衛のような人物を待ち望む人々はますます増えることでしょう。

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