間宮林蔵の樺太探検。伊能忠敬の弟子、スパイ・隠密としてシーボルト事件に関与?

樺太を島だと確認したことで有名な探検家の間宮林蔵(まみや りんぞう)。

ただし彼には探検家以外の一面もあったのです。

まずは有名な樺太探検の詳細と、測量技術を授けた伊能忠敬との師弟関係についてチェックしましょう。

さらにスパイ・隠密としてシーボルト事件に関与したという情報に迫ります。

間宮林蔵のプロフィール

本名:間宮倫宗(まみや ともむね)

生年月日:安永9年(1780年)、月日不明

死没:天保15年2月26日(1844年4月13日)

身長:153cm

出身地:常陸国筑波郡上平柳村(現在の茨城県つくばみらい市)

間宮林蔵の2度にわたる樺太探検

林蔵は幕命により樺太探検に赴き、樺太が島だと確認しました。

彼が発見した「間宮海峡」はシーボルトによって国外に伝えられ、世界地図上にその名を残すことになります。


樺太探検を命じられたのは1808年のことでした。

林蔵は松田伝十郎に従い、探検を始めます。

松田は西岸、林蔵は東岸から調査を行い、北樺太西岸ノテトで合流しました。

そこから北樺太西岸ラッカへ赴き、樺太が島だと断定。

「大日本国国境」の標柱を建てたうえで、1809年7月(文化6年6月)に帰着します。

その後林蔵はさらに奥地を探索すべく、再び1人で樺太へ向かいました。

アイヌの従者を雇ったうえ、樺太西岸を北上。

初回よりも北へ進み、北樺太西岸ナニオーに到達し、樺太を「半島」ではなく「島」だと再確認しました。

そのうえ鎖国時代にもかかわらず、樺太北部に住むギリヤーク人と共に海峡を渡ります。

清国の役所があるアムール川下流の町デレンの様子、ロシア帝国の動向など、知りたい情報が山ほどあったのです。

調査記録「東韃地方紀行」には、ロシア帝国が極東地域を支配しきれておらず、清国人の方が多い状況を記しました。

1809年11月(文化6年9月)に探検を終えた林蔵は宗谷に帰着し、松前奉行に結果を報告。

口述筆記で「東韃地方紀行」と「北夷分界余話」をまとめ、地図と併せて幕府へ提出しました。

大胆な行動力と確かな測量技術を併せ持った、カリスマ的探検家だったことがうかがえますね。

間宮林蔵は伊能忠敬の弟子として測量技術を習得

常陸国(現在の茨城県)に生まれた林蔵は、幼少期から数学をはじめ学問が得意でした。

9歳のときに寺子屋で読み書きとそろばんを学びます。

10代で江戸の地理学者・村上島之丞に弟子入りし、三角測量を習いました。

実力が認められた結果、1800年(寛政12年)に蝦夷地御用掛雇となります。

同年に函館で出会った伊能忠敬に師事し、緯度測定法を学ぶこととなりました。

1808年(文化5年)、忠敬の推薦で幕府の樺太調査班の一員に選ばれます。

樺太探検を経て再度蝦夷地に赴いた際は、師匠・忠敬が測量を果たせなかった地域の海岸を実測しました。

文政4年(1821年)に忠敬の「大日本沿海與地全図」が完成できたのは、林蔵の測量結果もあったからこそですね。

並外れた数学の実力によって、出世を重ねた生涯といえるでしょう。

間宮林蔵はスパイ・隠密としてシーボルト事件に関与

一流探検家だった林蔵ですが、実は違う一面も持っていました。

彼は調査と称し各藩の様子をうかがいに赴き、不正を調べて幕府に密告していたのです。


つまり幕府のスパイ・隠密でした。

林蔵が摘発したとされる事件の中でも有名なのが、1828年(文政11年)9月のシーボルト事件です。

オランダ商館のドイツ人医師・シーボルトが帰国直前、所持品の中から国外持ち出し禁止の日本地図が見つかります。

日本地図を贈ったのは、幕府天文方・書物奉行の高橋景保でした。

景保ら関係者数十名は処分されます。

景保は獄死し、子供は島流しにされました。

シーボルトは国外追放され、再渡航が禁止となります。

事件の発端は林蔵の密告とされ、景保やシーボルトよりも、林蔵を責める声が上がったようです。

樺太東岸の資料が欲しかった景保は、シーボルトから「世界周航記」を借りていました。

あくまでそのお礼として伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」の縮図を貸したというのが、真相だったそうです。

林蔵がシーボルトの荷物を奉行所に届けた結果、景保は命を落とすことになりました。

蘭学者たちは林蔵を「公儀の犬」と蔑んだそうです。

資料の何気ない貸し借りだけで処分されたとすれば、景保とシーボルトは確かに気の毒ですね。

とくにシーボルトは「間宮海峡」の名付け親のため、林蔵の名を世界に知らしめた人物といえます。

自分が有名にしてあげた人物から摘発されるとは、何とも皮肉な話です。

冷静に任務を遂行する能力に長けていた林蔵は、嫌われ者になったとしても出世する道を選んだのでしょう。


探検家としては魅力的ですが、出世や保身を重んじた点は、ロマンチックな生涯とはいえないかもしれませんね。

歴史上の人物の性格を、一面だけで判断してはいけないことがよくわかるエピソードでしょう。

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