市川房枝、結婚せず夫なし。子孫と家族について。若い頃のエピソードまとめ

「女性に教育が不要」とされていた大正時代。

市川房枝(いちかわ ふさえ)は女性の社会進出を実現させるため、婦人参政権運動を展開しました。

後年は参議院議員として「女性政治家のパイオニア」と呼ばれるようになります。

女性の地位向上のため生涯をかけた人物ですが、私生活ではどのような人だったのでしょうか。

今回は、房枝が結婚した夫、子孫の詳細から、家族の情報をまとめます。

また若い頃のエピソードを見ていき、偉大な女性政治家の業績を確認します。

市川房枝のプロフィール

本名:市川房枝

生年月日:1893年5月15日

死没:1981年2月11日

身長:不明

出身地:愛知県中島郡明地村(現在の一宮市)

最終学歴:愛知県女子師範学校(現在の愛知教育大学)

市川房枝に結婚歴はなく夫もいない

「大正デモクラシー」は、政治や社会における民主主義を目指す運動のこと。

運動が活発化していた1910年代から20年代にかけて、先進的な考え方の房枝は進路に悩んでいました。

結婚して家庭に入るか、女性の地位向上を実現するべく勉強するか。

当時、多くの女性は結婚後、嫁ぎ先に尽くしていました。


房枝にも縁談が入っていたものの、勉強したり、働いたりする自由を奪われたくありませんでした。

結果的に房枝は、女性の地位向上を目指して勉強する道を選びます。

同時に、生涯独身を貫く決意をしました。

そのため房枝に結婚歴はなく、夫もいません。

社会活動に取り組むため上京後は、思想家の平塚らいてうと出会い、大きな影響を受けます。

らいてうは「元始、女性は太陽であった」の出だしで始まる婦人雑誌「青鞜」のリーダーでした。

さらに房枝はアメリカに渡ると、全米婦人党のリーダーだったアリス・ポールと出会い、彼女からも大きな影響を受けました。

家庭に尽くすのではなく、主体的に社会問題に取り組む女性たちとの刺激的な出会い。

房枝は彼女たちの背中を追って勉強や婦人運動に取り組みます。

ILO・国際労働機関東京支部に就職後は、炭坑や紡績工場などの劣悪な環境で働く女性たちの姿を目の当たりにしました。

こうして房枝は、女性の労働環境を改善させるべく、生涯をかけることを決意するのです。

市川房枝の子孫は市川ミサオ

房枝は結婚せず、女性の地位向上のため忙しく活動していましたが、実は子孫がいました。

回顧録『市川房枝おもいで話』を執筆した、市川ミサオさんという女性です。

多忙な房枝をサポートしていた事務員で、子供がいなかった彼女の養女となりました。

養女に選ばれるほど厚い信頼を寄せられていたのですから、非常に優秀な事務員だったことがうかがえますね。

ミサオさんは養母とともに、長い間、苦楽を共にしたそうです。

房枝は戦時中、評論家団体「大日本報国言論会理事」に所属していました。

団体は言論統制に加担したとされ、房枝は戦後に公職追放されています。

講演や執筆はすべて禁じられ、畑を耕したり、下駄に鼻緒をすげる内職をしたりして極貧生活を送りました。

房枝は思いがけない試練に直面し、自死さえ考えたそうです。

そのようなときも、ミサオさんは献身的に房枝をサポートしました。

公職追放が解かれ、再び社会活動に参加できるようになってからも、2人は手を取り合って生き続けたそうです。

市川房枝の家族は農家

房枝は、農業に従事していた父・藤久郎と、母・たつの三女として生まれ、現在(2023)の愛知県一宮市で育ちました。

男3人、女4人の7人兄弟で、いずれも父の方針で学問に励んでいたそうです。

父の藤久郎は不本意ながら農業に携わっていました。

「もっと安定した仕事に就けなかったのは、自分が勉強をしてこなかったため」と考えていたようです。

子供たちが大人になってから、自分のように貧しくならないよう、熱心に勉強させていたのです。

結果的に房枝は、早い段階で社会問題に関心を抱く、優秀な女性へと成長しました。

市川房枝の若い頃の活躍とエピソード

房枝は教育熱心な父の影響を受け、「女性にも教育が必要」と考え始めます。

結婚して家庭に入るのではなく、勉強して社会進出する道を選びました。

愛知県女子師範学校(現在の愛知教育大)に進学。

良妻賢母教育に反発して、講義をボイコットするほど活動的な女子大生でした。

師範学校を卒業すると、小学校の教師として就職します。

その後は名古屋新聞(現在の中日新聞)の記者に転職するものの、1年で退職。

さらなる教養を身に付けるため上京して、「山田嘉吉塾」で英語を学び始めます。

ここで出会った思想家の平塚らいてうとともに、婦人団体「新婦人協会」を設立し、女性の政治参加を目指して活動しました。

アメリカでも労働問題について学び、帰国後はILO・国際労働機関東京支部に就職します。

ここで女性の過酷な労働現場の状況をリサーチしました。

のちに参議院議員として当選するのは60歳頃のことです。


しかし若い内から熱心に社会問題と向き合い、優秀な政治家としての土台を作っていたことは、経歴から明らかですね。

1980年、房枝は87歳の高齢でありながら参議院議員通常選挙に全国区トップで当選。

翌年に心筋梗塞で亡くなりました。

女性が好きな仕事を自由に選べるのは、房枝をはじめとする活動家たちのたゆまぬ努力の結果だったのです。

平塚らいてう、子孫と夫。与謝野晶子との違いと思想。フェミニストとしての主張

津田梅子の夫、結婚について。子供は養子、子孫に写真家。家系図まとめ

有吉佐和子が笑っていいともジャック!さんまが暴言?娘も小説家&結婚した夫とは

コメント