日露戦争で世界的にも最強とされていたバルチック艦隊を破り、英雄として名を馳せた海軍軍人・東郷平八郎(とうごう へいはちろう)。
日本では英雄として扱われ続けているものの、海外の反応はどうなのでしょうか。
今回は、東郷の海外での評判を紹介し、逸話についても見ていきます。
また肉じゃがが誕生したきっかけは、東郷がビーフシチューを作らせようとしたことという有名な逸話の信ぴょう性も確認。
最後に寡黙で短気だったという性格も紹介します。
東郷平八郎のプロフィール
鹿児島出身の東郷平八郎が肉じゃが作らせたとか話がある pic.twitter.com/2IkuuZ1Kl8
— マッキー参号 (@mm21918046) June 8, 2022
あだ名:東洋のネルソン
幼名:東郷仲五郎
生年月日:1848年1月27日(弘化4年12月22日)
死没:1934年5月30日
身長:推定153cm
出身地:薩摩藩(現在の鹿児島県鹿児島市加治屋町)
最終学歴:バーニーズアカデミー(海軍予備校)
東郷平八郎に対する海外の反応
2018年8月24日、中国では東郷をアジアの英雄としてまつり上げる記事が発表されました。
メディアは日露戦争で、当時連合艦隊司令長官だった東郷がバルチック艦隊を破り「初めて黄色人種が白色人種に勝利した」と紹介。
さらに東郷が、当時は限られた人材しかできなかった、イギリス留学を果たしたエリートであることも解説していました。
イギリスでは世界的にも高い水準の技術を誇る英国海軍で、軍艦の建造、航行などについて学んだそうです。
司馬遼太郎の代表作『坂の上の雲』では、イギリスの海軍研究家・ウィルソンが日露戦争での東郷の活躍を称賛した言葉が紹介されました。
ちなみにイギリスの人々は、東郷を海軍の英雄・ネルソン提督にたとえ「東洋のネルソン」と呼んでいたそうです。
「ネルソンのような人物」という評価は、最高の栄誉でもありました。
東郷を讃えたのは中国やイギリスだけではありません。
オランダによって統治されていたインドネシアでは、東郷はアジアの英雄として崇拝されていました。
イギリスの植民地でもあったインドの初代首相ネルーも、「東郷によってもたらされた日本海軍の勝利に感激した」と語っていました。
トルコでは戦後に捕虜たちを優しく介抱し、あたたかい人柄で現地で人気を獲得。トルコでは子供に「トーゴー」と名付ける人が続出したそうですよ。
西欧列強によって虐げられていたアジア諸国にとって、東郷は自国を解放してくれる英雄だったのです。
東郷平八郎の逸話:留学先で苦労、TIMEの表紙
世界各国で英雄として称えられてきた東郷ですが、イギリス留学中には人種差別に苦しんでいました。
「トーゴー」という名前の響きにかけて「To go China」とからかわれていたそうです。
しかし東郷はめげずに学問に励み、海軍の最新技術に触れて、日露戦争では司令長官に抜擢されることになりました。
また世界初のニュース雑誌であるアメリカの「TIME(タイム)」では、1926年に東郷が初めて日本人として表紙を飾っています。
『TIME』誌で初めて表紙をかざった日本人
東郷平八郎 pic.twitter.com/dY46rOODur— 日本史bot近現代史篇 (@nihonrekishibot) August 21, 2013
大物だけが表紙を飾れる雑誌として有名ですから、東郷が世界的に知られる英雄だったことがうかがえますね。
東郷平八郎が「肉じゃがを考案、実はビーフシチューが目的」という話は嘘?
日本国内で特に有名な逸話は、東郷が肉じゃがの考案者という話です。
海軍中将だった東郷が舞鶴市に赴任した際、「イギリス留学時代に食べたビーフシチューをまた食べたい」と考えたそうです。
そこで部下に艦上食としてビーフシチューを作るよう指示。しかし日本ではまだ洋食が広まっておらず、料理長は作り方を知りませんでした。
東郷からは牛肉、人参、ジャガイモが入っていると説明されたため、料理長は想像力を働かせて調理します。
デミグラスソースやワインなど必要な調味料がなく、代わりに砂糖や醤油などを使って作ったものが肉じゃがになったという話です。
東郷平八郎「ビーフシチューが食べたいンゴオオオオオ」
料理長「材料は?」
東郷平八郎「ジャガイモ、ニンジン、タマネギ、肉や。味付け?知らんわ」
料理長「」
↓
料理長「お待たせ!西洋料理なのに醤油とみりんで味付けしたけどいいかな?」
東郷平八郎「イイゾ~これ」肉 じ ゃ が
— なんJ日本史部 (@nanJ_historyJ) June 13, 2022
有名な逸話ですが、実はこの話は1990年代以降に広まったもので、信ぴょう性は低いとされています。
元々肉じゃがは、脚気の症状を緩和させられる栄養価の高い食べ物として、海軍で取り入れられたとされています。
東郷が肉じゃがを考案したという説は、舞鶴市が地元を宣伝するために広めただけというのが真相のようです。
同じく呉市も「舞鶴より先に東郷が赴任して、肉じゃがのもととなるレシピを考案した」と主張しており論争が続いています。
東郷の有名な逸話はあくまでも宣伝材料に過ぎなかったのですね。
「肉じゃがは東郷平八郎が留学先で食べたビーフシチューが忘れられず、部下に命令して作らせたら和風なのがで出てきて、食べたら美味かったのが起源」みたいな冷静に考えたら不自然な話、無批判に信じてた私。
実は平成後の創作どころか流布元が作り話と表明してたのに…。
人は何故信じるのか…。— マイケルニンジャ (@lowkaku2928) April 13, 2019
東郷平八郎の性格は寡黙で短気
東郷は「沈黙の提督」と呼ばれたほど寡黙な人物だったとされています。
元々は饒舌だったのですが、政府の要人・大久保利通の影響によって寡黙な性格に変わったそうです。
イギリスへの官費留学を希望したとき、大久保に却下されてしまったことがありました。
却下の理由について大久保が「東郷はおしゃべりすぎる」と評価していることを知り、その後は「寡黙になろう」と努めたそうです。
また東郷は非常に短気で怒りっぽい性格でもありました。
演説の最中に撮影しようとしたジャーナリストを一喝する肉声が残されていることから、その性格がうかがえます。
外国では強くて優しい英雄として知られていますが、それは営業用の姿であり、本来はもう少し人間らしい人だったのかもしれませんね。
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