水島新司の自宅は吉祥寺。息子は水島新太郎。引退理由は?伝説のプレー&若い頃のエピソード

野球漫画の金字塔『ドカベン』『あぶさん』などで知られ、プロ野球選手から子供たちまで多くの読者に愛された水島新司(みずしま しんじ)さん。

かつては高額納税者ランキングの常連だっただけあって、自宅もやはり豪邸でした。

息子の水島新太郎さんは芸能活動をしていた時期がありますが、2023年現在はどうしているのでしょう。

漫画家生活からの引退を発表したのは2020年のことですが、このときは具体的な引退理由は明かされませんでした。

引退理由についてのさまざまな憶測が飛び交うなか、本当の理由は何だったのかを探っていきます。

さらに野球漫画の第一人者ならではの伝説や、野球漫画創作への原動力となった若い頃のエピソードについてもまとめました。

水島新司のプロフィール

本名:水島新司

生年月日:1939年4月10日

出身地:新潟県新潟市

最終学歴:新潟市立白新中学校

職業:漫画家

水島新司の自宅は吉祥寺の大豪邸

漫画界だけでなく、日本球界にも多大な影響を与えた功労者でもある水島新司さん。

『ドカベン』『あぶさん』の累計発行部数は合計7000万部を突破しており、印税だけで30億円を超える計算になります。

あるスポーツ紙記者の話によれば、両作品の連載がスタートした70年代から、すでに収入は2億円以上。

長者番付の常連でもありました。

そんな水島新司さんの自宅は東京都武蔵野市吉祥寺南町にある大豪邸で、ファンの間では有名なスポット。

引退するまでは、ここで朝5時から夜6時まで仕事をし、そのあとは野球観戦などをして過ごしていたそうです。


吉祥寺は「住みたい街ランキング」の上位に必ずといっていいほど名前が挙がる街で、人気漫画家も多く住むことで知られます。

水島さんの自宅は仕事場も兼ねていて、敷地面積は約470坪。

土地と建物を合わせると、少なくとも13億円の価値があるとみられています。

特徴的なのは、一部が野球のホームベース型の造りになっていることでしょう。

上空から自宅の全景を見ると、一部がホームベース型になっているのがはっきりとわかります。

野球をこよなく愛する水島さんらしいこだわりですね。

前述のとおり、自宅は吉祥寺にありますが、「小金井」というキーワードで検索する人も多いよう。

水島さんは、過去に小金井市周辺に住んでいた時期もあるようです。

70年代は市内の喫茶店・白鳥の常連で、お店で構想を練ったり、執筆をしたりしていたとのこと。

代表作のひとつである『野球狂の詩』の女性投手・水原勇気の名前は、マスターの娘の「ユウキ」という名前が気に入ってもらったものだそうです。

息子・水島新太郎は父親のマネージメントを担当

一時期たけし軍団セピアに所属し、俳優としても活躍していた水島新太郎さんは長男です。

幼少の頃から野球の英才教育を受けた新太郎さんは、強豪校の堀越高校に入学。

野球部に所属したものの、残念ながら目立った活躍はできませんでした。

卒業後は俳優を志し、それを父に伝えると、父は草野球仲間だったビートたけしさんに相談。

たけし軍団入りが決まります。

高校時代のチームメイトであり、社会人野球チームでプレーしていた長嶋猛(のちのサード長嶋)さんを誘って「おぼっちゃま」というアイドルユニットを組み、シングルも4枚リリースしました。

1986年のフライデー襲撃事件の際には、たけし軍団の一員として参加して逮捕された新太郎さん。

しかし当時は未成年だったため、実名報道はされませんでした。

俳優の道をあきらめきれなかった新太郎さんは、その後、自らの意思で太田プロダクションへ。

ドラマ『ヴァンサンカン・結婚』や映画『ミスター・ベースボール』などに出演して俳優活動を行っていましたが、しだいに父に関連したイベントへの出演が増えていきます。

結果として父をサポートする場面が多くなり、芸能界から退いて、マネージメント業務に落ち着いたということです。

2022年2月に55歳を迎えた新太郎さんですが、今後は父の作品や著作権等の管理業務に携わっていくかもしれませんね。

水島新司の引退理由は?

水島新司さんは2020年12月に突如として引退を宣言し、63年間の漫画家生活に終止符を打ちました。

このとき、水島さんは81歳。

引退を決断した詳しい理由は明らかにされておらず、その後、闘病生活を送っていたかどうかも定かではありません。

ともあれ、18歳で漫画家デビューして以来、ずっと第一線で活躍してきた水島さんにとっては、久方ぶりにゆっくり過ごせる時間がもてたことでしょう。

明確な引退理由が公表されなかったことで、さまざまな憶測も飛び交いました。

引退理由その1 病気説

漫画家は、とかく体調を崩しやすい職業といわれます。

締切に追われるという仕事柄、ストレスが多く、生活のリズムも乱れがちになるのは想像ができますね。

水島さんも例外ではなく、胃潰瘍や低血圧などの持病に悩まされていたようです。


水島作品には酒豪のキャラクターがたびたび登場するのに、作者が下戸だったのは有名な話。

ですが、水島さんはヘビースモーカーでした。

1日に数箱の煙草を喫い、コーヒーを何杯も飲みながら執筆していたといいますから、身体にはよくありません。

2015年には、第1回からつとめていた「にいがたマンガ大賞」の最終審査員を体調不良を理由に辞任。

このときも詳細は発表されませんでしたが、本当は何かの病気だったのではないかとみる人もいるようです。

もしそうだとすれば、情報を規制していた可能性が高いですね。

その一方で、81歳にもなれば特に病気ではなくても何かしらの不調があって当たり前という見方も。

年齢的に無理もできなくなったということで、引退を決意した可能性もあります。

引退理由その2 『ドカベン』完結説

46年間という長期連載となったドカベンシリーズが完結したのが2018年6月、79歳のときでした。

結局、同年8月に発表した『あぶさん』の読み切りが最終作品となり、引退発表を経て、2022年1月10日、肺炎のため82歳でこの世を去りました。

『ドカベン』を描き切ったことで、水島さんはライフワークをやり遂げたと感じたのかもしれません。

人気漫画は、連載が長期化すると完結しないままストップしてしまうこともあります。

体調と闘いながら『ドカベン』を完結させたのは、水島さんの漫画家としての矜持だったのかもしれませんね。

『ドカベン』伝説のプレーが甲子園で再現

エースや4番ばかりに光を当てるのではなく、個性豊かなナインやライバルたちが試合ごとに脚光を浴びる作風で、野球漫画に新たな風を吹き込んだ『ドカベン』。

水島新司さんの野球の知識は本職のプロ野球選手や審判も舌を巻くほどでした。

野球愛が深いあまりに、語り継がれる伝説は数知れず。

今回は、作中で描かれたエピソードが現実の甲子園で起きてしまったという事例をご紹介しましょう。

『ドカベン』で描かれた「ルールブックの盲点の1点」

そのシーンが登場したのは夏の甲子園・神奈川県予選大会のこと。

主人公・山田太郎率いる明訓高校と、ライバル・不知火守(しらぬい まもる)投手を擁する白新高校が3回戦で激突します。

試合は0対0のまま延長戦へ突入。


10回表、明訓はワンアウト満塁のチャンスでスクイズ。

しかし打球は投手前への小フライに。

このとき1塁走者の山田が飛び出していたため、不知火はフライを捕球して1塁へ送球、山田はアウト。

誰もがスリーアウトでチェンジと思うところですね。

ところが白新ナインがベンチへ引き上げると、明訓のスコアボードに「1」の得点が。

「ダブルプレーでチェンジじゃないか」と驚く不知火。

じつは山田がアウトになる直前、3塁走者の岩鬼がリタッチせずに本塁に滑り込んでいたのです。

この場合、守備側はどうすべきだったのでしょう。

白新高校は、あらためて3塁に触球し、岩鬼がリタッチしていないことをアピールすれば岩鬼をアウトにすることができ、得点を無効にできました。

四つ目のアウトとなりますが、これは1塁でとったアウトを3塁に置き換えるアピールプレーとなります。

1塁上で三つ目のアウトが宣告されたため、ベンチへ戻ってしまった白新ナイン。

ファウルラインを超えた時点でアピールの権利は消え、明訓の得点が成立したというわけです。

このルールを知らなかった不知火は呆然。

結局、これが決勝点になりました。

俗に「第4アウト」「ルールブックの盲点」と呼ばれる事象です。

このプレーは、のちに甲子園で再現されることになります。

甲子園で再現された伝説のプレー

それは2012年夏の甲子園、徳島県の鳴門高校と熊本県の済々黌(せいせいこう)高校の一戦でした。

7回裏、済々黌の攻撃はワンアウト1、3塁。

打球はショート頭上を襲うも、ショートがジャンプしてキャッチ。

飛び出した1塁走者を見て、1塁へ送ってアウト。

ところが、このときも『ドカベン』と同じように、ダブルプレーの成立前に3塁走者が生還していたのです。

さらに白新高校と同じく鳴門高校もアピールプレーをしませんでした。

済々黌高校にとっては3対1となる貴重な追加点となり、試合に勝利。

3塁走者の中村謙太選手は『ドカベン』を読んでいて、このルールを知っていたのだそう。

「水島先生と野球の神様のおかげです」と語っています。

『ドカベン』を読んで初めてこのルールを知った野球好きも多いのではないでしょうか。

若い頃のエピソードと野球漫画への思い

『ドカベン』の舞台である明訓高校は、水島さんが憧れていた新潟明訓高校がモデルです。

また不知火守が在学する白新高校の校名も、自身が通っていた新潟市立白新中学校からとったもの。

地元の野球強豪校、新潟明訓高校への進学を熱望していた水島さんは、家庭の経済状況を考慮して高校進学を断念した経緯がありました。

夢を断念したときの思いが野球漫画創作のバネになり、のちに『ドカベン』で明訓高校を描くことになったのです。

中学卒業後は、父親が借金をしていた水産問屋で働きながら漫画の腕を磨き続けました。

初期の頃は野球以外のスポーツ漫画を多く手がけていましたが、それには理由があります。


投げる・打つ・走るといった野球選手特有の動きを描写するには画力が足りないと感じていたためでした。

結局、いちばん描きたい野球漫画を描く自信がつくまでに10年かかったとのことです。

水島さんは、『男どアホウ甲子園』でようやくブレイクを果たします。

野球を愛し、日本の野球界の発展とともに歩んだ漫画家人生に幕を下ろした水島新司さん。

高校野球の『ドカベン』、プロ野球の『あぶさん』の次は、社会人野球を舞台にした作品も読んでみたかったですね。

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