つげ義春の近況。漫画に描かれた調布と自宅。若い頃はトキワ荘にいた、は誤情報だった

『ねじ式』『ゲンセンカン主人』などのシュールな作風が「漫画による芸術」と高く評価され、熱狂的なファンを獲得したつげ義春(つげ よしはる)さん。

まずは長い休筆状態が続くつげさんの近況を追っていきます。

つげさんといえば調布市とゆかりの深い漫画家として知られ、作品にも調布の風景が登場しますが、実際はさまざまな事情で転居を繰り返しており、自宅もその都度変わりました。

「若い頃、トキワ荘に住んでいた」という噂の真相にも迫ります。

つげ義春のプロフィール

本名:柘植 義春

生年月日:1937年10月30日

出身地:東京都葛飾区

職業:漫画家

代表作:李さん一家

つげ義春の近況まとめ

つげ義春さんは、1987年に『COMICばく』に発表した『別離』を最後に新たな漫画を描いていません。

休筆状態が35年も続いていることになりますが、筆を置いた大きな原因は、やはり1980年に診断された不安神経症とのことです。

強い発作に襲われて仕事ができなくなったのが1987年のことでした。

デビュー60周年を特集した『芸術新潮』2014年1月号では、1999年に妻・藤原マキさんをがんで亡くしたことや精神的な不調によって離人症になりかかっていたことを明かしています。


2023年現在は高齢ということもあって、漫画の創作がより困難な状況にあるのかもしれません。

新作が読めないことはファンにとっては残念ですが、過去の作品が映像化されたり、形を変えて何度も出版されたりして、新しい世代にも支持者を生み出してきたつげ義春さん。

生活を支えてきたのは、おそらく印税収入でしょう。

2020年2月には、フランスのアングレーム国際漫画祭で特別栄誉賞に輝き、授賞式に出席。

人前に出ることが苦手なつげさんらしく、当初は気が進まなかったようですが、同漫画祭はヨーロッパ最大規模の漫画の祭典。

一人息子の正助さんに説得されての渡仏でした。

正助さんの話によると、つげさんは西洋というものに関心がないようで、観光を楽しむこともせず、とんぼ返りしたとのこと。

このあたりにも独特の感性が表れていますね。

同年4月には、『つげ義春大全』全22巻の刊行がスタート。

電話取材に応じたつげさんは、「新しい作品がないので、みなさんがっかりされると思う」とコメント。


さらに2022年2月には、日本芸術院の新会員候補に選出されて話題になりました。

3月1日の会員辞令伝達式にはスーツ姿で出席し、「わたしは一介の漫画家にすぎませんから、教養がなくて」「先生方の前で緊張しちゃって」などと挨拶しています。

プライベートでは妻に先立たれているため、主夫の役割もこなしているというつげ義春さん。

コロナ禍といえども生活はさほど変わらず、毎日のように近所に買い物に出かけているそうですから、精神的な不調はともかく、身体的には深刻な不調はないようですね。

つげ義春が漫画に描いた調布、モデルになった自宅アパート

調布市には、日本漫画界のレジェンド・水木しげるさんが眠る覚證寺(かくしょうじ)があります。

つげ義春さんは水木さんのアシスタントをつとめていた時期がありました。

覚證寺のすぐそばの中華料理店・八幡は水木さん行きつけのお店であり、名作『ねじ式』生誕の場所。

八幡がまだ木造2階建ての建物だったころ、つげさんはその2階に下宿していたのです。

ご本人によると、ある日、屋根の上でみた夢が『ねじ式』のモチーフになったとのこと。

同作品は1968年の『ガロ』6月増刊号「つげ義春特集」に発表されます。

その後、つげさんは九州へ蒸発したり、弟・忠男さんのいる千葉県柏市に引っ越したりと転居を繰り返しながら、思い出したように調布へ戻ってきます。

『夏の思いで』に登場する木造アパート・ひなげし荘は、1970年春、妻の藤原マキさんと入居したひなぎく荘がモデル。


現行行政地名は調布市多摩川となっており、2006年の時点でアパートの名称も変わっていました。

建物の周りには大きな道路もでき、のどかな風情は消えつつあるものの、周辺の樹々は作中の面影を残しています。

1974年夏になると、夫妻はひなぎく荘から荻窪に移り、秋にはふたたび調布に戻ることに。

このときの自宅が酒井荘で、現行行政地名は調布市多摩川です。

長男・正助さんの誕生とともに婚姻届を出したり、マキさんが競輪場の京王閣でアルバイトをしていたのも酒井荘時代でした。

『日の戯れ』は、このアパートをモデルにしています。

しかし、2年もたたないうちに近くの富士マンションに転居。

当時の酒井荘と富士マンションはすでにないそうてすが、路地の入り組んだ地形はそのまま残っているとのこと。

つげ義春さんは多摩川と調布の風景を好んでいたからこそ、作品にも多く描き残したのでしょう。

『無能の人』を描いたころに住んでいたのは多摩川住宅でした。

1968年に完成した、調布市と狛江市にまたがるマンモス団地で、ここには1993年までの15年間住んでいました。

マキさんの『私の絵日記』にも、ここでの暮らしのようすが登場します。

つげさんはその後もずっと調布在住という情報があります。

2003年8月、文芸・漫画研究家の清水正さんが自著『つげ義春を読め』を献呈するために調布を訪れた際、つげさんが指定した場所は京王線調布駅近くのコーヒーハウス・シャノアールでした。

このとき、シャノアールから自転車で5分ほどのところに自宅があると清水さんに話しています。

市外に転居したという情報もないことから、2023年現在も調布在住の可能性が高そうです。

「つげ義春は若い頃トキワ荘に住んでいた」は誤情報

手塚治虫さん、藤子不二雄のお二方、石ノ森章太郎さん、赤塚不二夫さんらが居住していたことで知られる漫画の聖地、トキワ荘。

このトキワ荘に若い頃のつげ義春さんも住んでいたという話がまことしやかにささやかれています。

この話の出どころは、どうやらWikipediaにあるようです。

2010年の時点で、「トキワ荘」の項に「実際に居住したことのある漫画家」として、つげ義春さんの名前が記載されていたそうです。

また「つげ義春」の項には、「短期間だがトキワ荘に住んでいたこともある」と書かれていたとのこと。

結論からいうと、つげさんはトキワ荘を訪れたことはあるものの、居住者ではありませんでした。

その後、Wikipediaの記述は削除・訂正されています。

「つげ義春はトキワ荘に住んでいた」という記述が気になっていたファンは多いようで、なかにはイベントにおいて直接つげさんに確認した強者も。


その方は、「住んでないです」というご本人の証言をネット上に投稿しています。

また、トキワ荘の住人だったよこたとくおさんに質問したファンもいて、同じく「彼は住んでいないよ」という言葉が返ってきたそうです。

同業者の漫画家だけでなく、芸術家、劇作家などざまざまな人々の漫画観を揺るがし、衝撃を与えたつげ義春さん。

新作漫画の話題が聞こえてこないのは残念ですが、おそらくつげブームは今後も繰り返され、そのたびに新たなファンを獲得していくことでしょう。

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