いしだあゆみの家族がドラマに!実家は喫茶店。ハーフ疑惑?女優の妹や母親、劇団出身について

歌手としてブレイクしたあとは女優としても存在感を放ち、数々の女優賞を獲得してきたいしだあゆみさん。

石田家をモデルにした義弟の小説『てるてる坊主の照子さん』が連続テレビ小説でドラマ化されて以来、いしださんの家族や実家に大きな関心が寄せられているようです。

印象的な大きな目や端正な顔立ちからハーフの噂もささやかれていますが、本当のところはどうなのでしょう。

妹や母親はどんな方なのかを調べるとともに、いしだあゆみさんの出身についてまとめました。

いしだあゆみのプロフィール

本名:石田良子

生年月日:1948年3月26日

身長:163cm

出身地:長崎県佐世保市

最終学歴:上野学園中学校・高等学校

所属事務所:イザワオフィス

いしだあゆみの家族をモデルにした『てるてる家族』

いしだあゆみさんはショーケンこと萩原健一さんと結婚していた時期がありました。

婚姻期間は1980年から1984年です。

2人はドラマ『祭ばやしが聞こえる』で共演した間柄。

離婚後も萩原さんが島田由紀さん、冨田リカさんと結婚をくり返したのに対して、いしださんは2022現在も独身を貫いたまま。

2019年3月26日の元夫の死去にあたっては追悼コメントを発表しています。

いしだあゆみさんの家族といえば、2003年秋から2004年春にかけて放送された朝ドラ『てるてる家族』を連想する人も多いでしょう。

戦後昭和の大阪を舞台に、パン屋を営む父、喫茶店を開業した母、そして四人の娘たちの笑いあり涙ありの毎日を懐メロにのせて描いたドラマでした。

モデルとなったのはいしだあゆみさん一家の石田家で、原作はなかにし礼さんの小説『てるてる坊主の照子さん』。


なかにし礼さんは石田家の四女・石田ゆり(本名・中西由利子)さんの夫であり、いしだあゆみさんの義弟にあたります。

いしだあゆみさんは長崎県佐世保市生まれ、大阪府池田市育ち。

石田家はパン職人の父と母、姉が一人に妹が二人。

家族構成はドラマの岩田家と同じですが、劇中の四姉妹の名前が上から春子・夏子・秋子・冬子だったのに対し、実際の石田家は治子、良子(よしこ)、美恵子、由利子。

次女の良子さんがいしだあゆみさんです。

実姉の治子さんは結婚して岡本姓になりました。

彼女は元フィギュアスケート選手で、1968年のグルノーブルオリンピックに日本代表として出場したのち現役を引退し、指導者に転進。

元タカラジェンヌの松雪可奈子さんは実子です。

『てるてる家族』で長女・春子を演じたのは紺野まひるさんでした。


同ドラマでスケート指導を担当したのは治子さんです。

原作もドラマも石田家をモデルにしているとはいえ、あくまでフィクションですから、脚色した部分はあるでしょう。

しかし治子さんによると、『てるてる坊主の照子さん』は面白おかしく誇張しているところもあるけれど、スケートの成績など記録通りに記述している部分もあるとのこと。

義弟であるなかにし礼さんによる小説ということを考えると、ある程度事実が反映されていると思われます。

いしだあゆみの実家は喫茶店を廃業

いしだあゆみさんの実家は大阪府池田市で喫茶店フジヤを営んでいました。

阪急宝塚線池田駅前の池田栄町商店街は、いしださんが育った街です。

喫茶店とありますが、父はパン職人で、パンや洋菓子も販売していたのだそう。

ちなみに、日清食品創業者でチキンラーメン・カップヌードルの考案者でもある安藤百福さんの息子・安藤宏基さんは、家族との散歩の帰りにフジヤでクリームソーダを飲むことを楽しみにしていたといいます。

甘いものに目がないといわれるいしださんですが、おそらく実家の商売も影響していると思われますね。

フジヤは、その後喫茶店を廃業。

お店はブティックに変身しましたが、そのブティックも閉店したようで、2023年現在はシャッターを閉めています。

いしだあゆみにハーフ疑惑

地元の商店街では美人四姉妹と評判だったという石田家の娘たち。

いしだあゆみさんは大きな目や目鼻立ちのくっきりとしたルックスで華やかな雰囲気があり、欧米系ハーフのようにも見えます。

特に若い頃の写真はそれが際立っていますね。

ですが、いしださんがハーフである可能性はきわめて低そうです。

そう思われる理由をいくつか挙げていきましょう。

まず父親ですが、原作では元陸軍将校で、池田市出身という設定であること。

ドラマでもコテコテの大阪人として描かれていました。

母親の実名は久子さんといい、出身は福岡県大牟田市。

さらに長女の治子さんが日本代表としてオリンピックに出場していること。

そして、いしだあゆみさんの長い芸能生活のなかで、ハーフであることをメディアが報じていないこと。

日本人のなかには、顔立ちがエキゾチックなために外国の血が混じっているのではないかと思わせる人もいますが、いしだあゆみさんもそのタイプなのではないかと思います。

いしだあゆみの妹は美恵子と由利子

 
いしだあゆみさんの二人の妹のうち、広く知られているのは末の妹の石田ゆりさんです。

ドラマで語り手をつとめた冬子のモデルですね。

ゆりさんは1951年11月23日生まれで、70年代に歌手・女優として活躍。

宝塚音楽学校を卒業していますが、宝塚歌劇団への入団は辞退しました。


同期に小柳ルミ子さんや麻実れいさんらがいます。

歌手としてデビューしたのち、すべてのシングルの作詞を手がけたなかにし礼さんと1971年10月16日に結婚、芸能界を引退。

なかにしさんとの間に一男一女をもうけており、長男の名前は中西康夫さんというそうです。

さて、もう一人の妹である石田家の三女はどんな方なのでしょう。

オリンピック選手に芸能人という姉妹に囲まれた美恵子さんは、どうやら一般人のようですね。

ドラマでは上野樹里さん演じる秋子が、安藤百福さんをモデルとする人物の即席ラーメン開発を手伝うというエピソードも描かれていましたが、これはドラマ化にあたって挿入されたオリジナルのストーリー。

長女の治子さんによると、美恵子さんも中学生からフィギュアスケートをやっていて、国体への出場経験はあったものの、刺激を受けるレベルのスケーターではなかったとのこと。

オリンピックの切符を手にした治子さんほど目立った活躍はできなかったようです。

いしだあゆみの母親・久子は肝っ玉母さん

四姉妹の母親として、原作小説とドラマに登場する岩田照子のモデルは、いしだあゆみさんの母の久子さんです。

銀行員をやめてパン職人になった夫を支え、喫茶店を切り盛りしながら子供たちを育て上げた肝っ玉母さんでした。

ドラマでは浅野ゆう子さんが演じていましたね。


久子さんは2010年9月1日に病気のため自宅にて死去、享年87歳でした。

娘たちが仕事や結婚で独立したあとは夫婦二人暮らしだったそうです。

久子さんの喫茶店が繁盛したのは、当時はまだめずらしかったテレビ喫茶だったから。

このアイデアが大当たりして、大阪市北区の梅田阪急スケートリンクにも喫茶店を開業し、これがきっかけで娘たちがフィギュアスケートの才能を開花させることになりました。

いしだあゆみさんも小学校6年生のときに関西ジュニア選手権で優勝しています。

いしだあゆみは児童劇団出身だった

いしだあゆみさんはフィギュアスケートの選手時代にスカウトされ、中学生で大阪から上京しました。

アイドル歌手として『ネェ、聞いてよママ』でデビューしたのは1964年、16歳のときです。

1969年には『ブルー・ライト・ヨコハマ』がミリオンセラーの大ヒットとなり、歌手としてのイメージが定着します。

スター歌手となったあとは演技の世界へ主軸を移し、実力派女優として不動の地位を確立。

昭和世代であれば、いしだあゆみさんは歌手出身の大女優というイメージを誰もが抱くでしょう。


ですが、フィギュアスケート選手として活躍していた大阪時代に、じつは児童劇団でも活動していたのです。

初舞台は1961年の梅田コマ劇場。

歌手デビュー後、森繁久彌さんの孫役で『七人の孫』に出演するなど、早くから二足のわらじで芸能活動ができたのは、劇団出身の演技力が備わっていたからにほかなりません。

テレビドラマ化や舞台化がされたことで話題を呼んだ『てるてる坊主の照子さん』。

オリンピック選手や大女優を輩出したいしだあゆみさん一家を題材に、直木賞作家の義弟がつづった物語というのは信じられないような話ですが、本当の話です。

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